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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第五十四話:影の伝文


第五十四話:影の伝文


執筆:町田 由美


 深夜、呉の軍営の端。

 波の音だけが支配する私の幕舎に、一筋の冷たい風が入り込んだ。灯火が揺れ、私の背後の影が不自然に伸びる。

 「……戻ったか」

 私が羽扇うせんを置くと同時に、膝をつく音がした。そこには、泥と汗にまみれ、夜の闇に同化した密偵が一人。隆中へと放ち、月英殿と弟・均の命を託した、私の「私欲」の化身である。

 「……申し上げます。隆中の工房は、曹操の先鋒によって灰となりました。……ですが、黄承彦こうしょうげん殿、月英様、均様は、いずれもご無事です。……江夏こうかのさらに南、隠れ里にて、軍師の次なる『指示』を待たれております」

 密偵が懐から取り出したのは、煤けた小さな絹の切れ端。そこには、見覚えのある繊細な、しかし力強い筆致で一文字だけ記されていた。

 ――『生』。

 私は、その布を指先で強く握りしめた。

 家族は生きている。私の「理」が彼らを死の淵から救い出した。だが、安堵に浸る時間は一瞬も許されない。私は懐から、あらかじめ用意していた「青い竹簡」を密偵に差し出した。

 「……これを、江夏の劉備将軍のもとへ届けよ。……そして、その足で再び南へ下り、月英殿に伝えなさい。……『赤壁の煙が上がったその夜、江の北岸、あしの生い茂る古い渡し場に、二十隻の小舟を集めておけ』と」

 密偵が顔を上げる。その瞳には、私の意図を測りかねる困惑が走った。

 「軍師……。それは、戦の後の『退路』にございますか?」

 「……いいえ。それは、私が周瑜殿の『殺意』から逃れるための道であり、同時に、曹操の敗残兵を完全に断つための、私の『最後の冷徹』です。……ゆけ。誰にも見られるな。……たとえ呉の精鋭に見つかろうとも、その口を割る前に舌を噛み切れ」

 密偵は言葉を発せず、ただ一度、深く頭を下げると、再び闇の中へと溶けるように消えていった。

 

 私は、独り残された幕舎で、再び筆を執った。

 今、密偵を通じて放った伝達は、呉の者たちが決して知ってはならない「劉備軍だけの独断」だ。

 周瑜殿は、曹操を焼くことしか考えていない。だが私は、曹操を焼いた後の「天下の図」を描かねばならないのだ。

 (……月英殿。……あなたの用意してくれる舟が、私の最後の『命綱』となるでしょう。……この赤壁は、呉と魏の戦いではない。……私と、私自身の『孤独』との戦いなのです)

 翌朝。

 私は、何食わぬ顔で周瑜殿の前に立った。

 

 「……周将軍。……火を放つ準備は整いました。……あとは、空が私に従うのを待つだけです。……風です。……北西から吹く絶望を、南東から吹く希望に変えるための、『祈祷』の場を用意してください」

 

 

 密偵が持ち帰った家族の生存という「光」を、彼は即座に「戦略」という名の影へと変換した。

 七星壇の建立。

 孔明が、神を演じるための舞台が、血塗られた長江のほとりに築かれようとしていた。

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