第五十三話:苦肉の残響
第五十三話:苦肉の残響
執筆:町田 由美
呉の軍営に、冬の風が血の匂いを運んできた。
私は、高台からその凄惨な光景を、羽扇を握り締めて見つめていた。視線の先、軍法会議の場では、白髪の老将・黄蓋殿が、全軍の目の前で地に伏せられ、周瑜(公瑾)殿の怒声が冬空に響き渡っていた。
「――この老いさらばえた者が! 敵前逃亡を口にするとは何事か! 斬れ! こ奴の首を撥ねよ!」
周瑜殿の演じる「激昂」は、真に迫っていた。いや、それは演技を越えた、彼自身の内側にある「曹操への恐怖」と「孔明への対抗心」が混じり合った、剥き出しの狂気であった。
「都督、お待ちを! 黄蓋殿は先代から仕える忠臣! どうか、命だけは!」
魯粛(子敬)殿が必死に縋り付くが、周瑜殿はそれを蹴り飛ばす。
そして、首を撥ねる代わりに下されたのは、百叩きの刑。……老いた肉体には、死よりも過酷な責め苦であった。
重い杖が振り下ろされるたび、乾いた音が夜の静寂を切り裂く。
一、二……十、二十……。
黄蓋殿の背中の皮が裂け、鮮血が飛び散り、雪混じりの大地を赤く染めていく。それでも老将は、歯を食いしばり、一言も許しを乞わない。その瞳は、ただ一点――対岸の曹操軍の陣営を見据えていた。
(……黄蓋殿。……あなたは今、自らの命を『火種』に変えようとしているのですね)
私は、その場に立ち尽くす諸将の中で、唯一人、表情を変えずにいた。
いや、変えることができなかった。
私がここで「これは計略だ」と見破った顔をすれば、呉の者たちは私を「人の心を持たぬ化物」として、さらに疎むだろう。逆に、魯粛殿のように取り乱せば、軍師としての「理」が疑われる。
私は、ただ冷徹な仮面を被り、黄蓋殿の流す血の一滴までもを、赤壁の炎の燃料として計算に組み込むしかなかった。
「……孔明殿。なぜ、あなたは止めなかったのだ!」
刑が終わり、瀕死の黄蓋殿が運び出された後、魯粛殿が涙を流しながら私に詰め寄った。その指先が、私の白い衣を血で汚す。
「……子敬殿。周将軍があれほど本気で怒り、老将があれほど無残に打たれた。……だからこそ、曹操の密偵は信じるのです。……人の痛みは、どんな言葉よりも雄弁な『真実』となる。……私は、黄蓋殿の覚悟を、安っぽい慈悲で汚したくはなかった」
「……貴殿は……。貴殿には、人の心というものがないのか!」
魯粛殿の言葉を背に、私は独り、闇夜の長江へと歩みを進めた。
心がない?
笑わせないでいただきたい。
新野で民の悲鳴を聞き、長坂坡で法の死を看取った私が、今更この老将の痛みに動じないとでも思っているのか。
(……痛い。……痛いのです、子敬殿。……この羽扇を握る指先が、黄蓋殿の背中と同じように、焼けるように熱い。……だが、軍師が泣けば、誰がこの巨大な地獄の舵を取るというのです)
私は懐から、月英殿が持たせてくれた小さな「薬草の粉」を取り出した。
それを、そっと風に散らす。
せめてもの弔い。いや、私の罪悪感という名の、無意味な贖罪。
彼は、自らを「理の器」として完成させるために、人間としての感情を、一つ、また一つと長江の底へ沈めていった。
黄蓋の血が、曹操への降伏を装った「偽りの書状」を濡らす。
赤壁の歯車は、もはや誰にも止められない速度で、破滅へと向かって回り始めた。
「……周将軍。……あなたの覚悟、受け取りました。……ならば、仕上げは私が行いましょう。……天を操り、風を呼び、この長江を死の火の海に変えてみせる」
夜の闇の中で、孔明の瞳だけが、来るべき「東風」を予感して、異様なまでに冴え渡っていた。




