第五十二話:草船(そうせん)、矢を借る
第五十二話:草船、矢を借る
執筆:町田 由美
呉の陣営に漂う空気は、一昼夜にして一変していた。
孫権様が机の角を剣で切り落とし、「曹操に降る者はこの机と同じ運命を辿るべし」と宣言されたその瞬間から、赤壁は巨大な戦場へと作り変えられたのだ。
だが、私の隣を歩く周瑜(公瑾)殿の横顔に、もはや昨日の激昂はない。
あるのは、冷徹なまでの「殺意」だ。曹操に対してではない。私、諸葛孔明という存在に対しての。
「……孔明殿。我が軍は水戦を主とするが、矢が決定的に不足している。……つきましては、十日のうちに十万本の矢を調達していただきたい。これは連合軍の勝利に不可欠な務めだ」
周瑜殿は、端正な唇を歪めて微笑んだ。十日で十万本。職人を総動員しても不可能な数字だ。失敗すれば「軍律」の名の下に私の首を撥ねる――。それが、彼が私に突きつけた最初の「死の招待状」だった。
「……十日では長すぎます。三日あれば十分でしょう」
私は羽扇を揺らし、あえて彼の予測を上回る言葉を返した。
傍らにいた魯粛(子敬)殿が、驚愕で顔を蒼白にする。だが、私は知っていた。理は、机の上にあるのではなく、空の雲の動きと、長江を渡る湿った風の中にあることを。
「……三日、だと? よかろう。ならば軍令状を書いてもらおうか。嘘をつけば、貴殿の命はないぞ」
私は無言で筆を執り、己の死を賭けた誓約書を書き上げた。
そして三日目の深夜。
長江は、対岸の火が見えぬほどの深い霧に包まれていた。一寸先も見えぬ白い闇。それは、私が三日前の風の流れから読み切っていた「気象」という名の必然だった。
「子敬殿、船を出しましょう。二十隻。船の両側に藁束を積み上げ、兵の代わりに布を巻いた案山子を並べてください」
「孔明殿、正気か! 矢も持たずに敵陣へ向かって何をするつもりだ!」
魯粛殿の悲鳴のような声を背に、私は小舟の舳先に座り、琴を奏で始めた。
霧の向こうには、曹操の巨大な水塞が眠っている。
「……叩きなさい。太鼓を、鉦を。……曹操という男は慎重だ。この深い霧の中、姿の見えぬ敵軍が押し寄せれば、決して船は出さない。……ただ、矢の雨を降らせるはずだ」
ドォォン、ドォォン……!
夜の静寂を切り裂く太鼓の音。
刹那、曹操軍の陣営から、無数の火花が散った。
「放て! 賊を近づけるな!」
叫び声と共に、天空を埋め尽くすほどの矢が、雨となって我々の船へと降り注ぐ。
シュッ、シュシュッ……!
藁束に突き刺さる矢の音。それは、私にとっては「計算通り」という名の音楽に聞こえた。
船が片側に傾けば、私は船を反転させ、反対側の藁束にも矢を受けさせた。
「……孔明殿。貴殿は、神なのか……」
震える魯粛殿に、私は静かに笑いかけた。
「神ではありません。……私はただ、三日前の風の匂いから、今日の霧を予測し、曹操という男の臆病さを、私の『知略』の駒にしただけです」
夜が明ける頃、二十隻の船には、およそ十万本を超える矢が、針鼠のように突き刺さっていた。
私は、矢を一本抜き取り、その重みを確かめた。
「……曹操、感謝いたします。……あなたが大切に蓄えたこの矢で、あなたの艦隊を焼き払いましょう」
柴桑の港に戻った私を待っていたのは、愕然とした表情で立ち尽くす周瑜殿だった。
彼は、自らの策が私の「理」に完敗したことを悟り、拳を血が滲むほど握り締めていた。
彼は、自らの命を秤にかけ、呉の者たちに「格の違い」を見せつけた。
しかし、その勝利は、周瑜の殺意をより一層、深く、冷たいものへと変えていく。
(……月英殿。……私はまた一つ、生き延びるための敵を作りました。……赤壁の炎が上がる前に、私は私の首を守り切らねばなりません)
理の刃は、今、敵だけでなく味方の喉元をも、静かに狙っていた。




