第五十一話:両雄、対峙す
第五十一話:両雄、対峙す
執筆:町田 由美
評定の間を辞した私の背中には、敗北した文官たちの、呪詛に近い視線が突き刺さっていた。
だが、そんなものは微風にも等しい。
魯粛(子敬)に案内され、私が次に向かったのは、長江を見下ろす物見櫓の傍らに建つ、質素ながらも研ぎ澄まされた気配を放つ一軒の館だった。
「……孔明殿。これから会う男こそ、呉の命運を握る心臓だ。……周公瑾。彼は情に厚いが、それ以上に、己の知略に絶対の自尊心を持っている。……どうか、言葉を選んでいただきたい」
魯粛の忠告を、私は無言で受け流した。
言葉を選ぶ必要はない。私は今日、彼を「怒らせに」来たのだから。
館の奥、琴の音が静かに響いていた。
一音の乱れもない、完璧な旋律。
扉が開くと、そこには白衣を纏い、彫刻のように整った横顔を持つ一人の男が座していた。
周瑜。
彼が指を止め、私に視線を向けた瞬間、部屋の温度が数度下がったように感じられた。
「……貴殿が、臥龍か」
周瑜の声は、鈴を転がすように清らかだが、その奥には鋼の硬さが潜んでいる。
「博望の火を操り、新野の民を泥に沈めた男。……我が呉の文官どもを言葉でなぎ倒したそうだが、私の前ではその舌を休めるがいい。……私は、数字と風向き、そして剣の味しか信じない男だ」
私は、羽扇を胸の前でゆっくりと動かし、彼の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……周将軍。……数字を信じるというあなたが、なぜ曹操の『偽りの五十万』に惑わされるふりをなさるのですか。……風向きを信じるというあなたが、なぜ天下に吹く『変革の嵐』に背を向けようとなさるのか」
周瑜の眉が、わずかに動いた。
「……惑わされるだと? 私は現実を見ているのだ。……劉備軍は壊滅し、貴殿は寄る辺なき亡命者に過ぎない。……呉が曹操に降れば、江東の民は安泰。……戦えば、この豊かな水面は赤く染まる。……都督たる私の判断は、一つしかない」
「……ほう。……降伏、ですか」
私はあえて深く、溜息をついて見せた。
「残念なことです。……江東の美周郎と称えられる男が、これほどまでに『女々しい』お考えをお持ちとは。……ならば、名案があります。……将軍が膝をつく必要すらありません。……二人の女を曹操に献じれば、五十万の軍勢は霧のように消え去るでしょう」
「……何だと?」
周瑜の瞳に、鋭い殺気が宿った。
「……曹操は許都に『銅雀台』を築きました。……彼の望みは、天下の二人の絶世の美女――大喬と小喬を、その台に囲い、晩年の慰めにすること。……大喬殿は亡き孫策様の妻、そして小喬殿は……あなたの愛妻ではありませんか。……二人を差し出しさえすれば、呉は安泰です。……将軍、何を迷われることがありましょう?」
刹那。
パァン!!
周瑜が激昂し、傍らの机を拳で叩きつけた。
彼の顔は怒りで紅潮し、その端正な面影は修羅のそれへと変貌していた。
「――諸葛亮!! 貴様、我が妻を辱めるか!! ……曹操、あの老賊め!! ……この周公瑾、たとえ呉が灰になろうとも、あの男だけは許さぬ!!」
私は、心の中で深く頷いた。
知略で説けば、彼は対抗心を燃やすだけだ。
だが、男の「誇り」と「愛」を逆撫ですれば、彼はもはや理性の檻には留まれない。
「……失礼いたしました、都督。……まさか、あなたがそこまで小喬殿を愛しておられるとは。……ならば、戦うしかありませんな」
周瑜は肩で息をしながら、私を睨みつけた。
だが、その瞳からは、先ほどまでの冷たい拒絶は消えていた。
そこにあるのは、共に「怪物」を屠るための、血の滾る共鳴。
「……諸葛孔明。……貴殿の底知れぬ悪知恵、今日初めて理解した。……いいだろう。……赤壁で、曹操を、そして天下を、共に焼こうではないか」
彼は、自らの言葉を毒薬に変え、呉の最強の心臓を叩き起こした。
周瑜という名の巨大な火薬庫に、導火線が引かれた瞬間であった。
(……月英殿。……見ていてください。……これが、私の描く『赤壁』の幕開けです)




