第四十九話:船上の羅針盤
第四十九話:船上の羅針盤
執筆:町田 由美
長江の濁流を切り裂き、呉の快速船は東へとひた走る。
船室の窓から見えるのは、新野や長坂坡を焼き尽くした火の粉ではなく、どこまでも深く、暗い水のうねりだった。
私は、魯粛(子敬)が用意してくれた清潔な衣服に着替えた。しかし、どれほど湯を浴びても、爪の間に食い込んだ長坂坡の泥と、鼻腔にこびりついた血の匂いだけは消えなかった。いや、消してはならないのだ。この痛みが、私の「外交」という名の刃を研ぎ澄ませる唯一の力なのだから。
「……孔明殿。顔色が優れないな。少しは休まれたらどうだ」
魯粛が、温かな酒を注いで差し出した。この男の善意は本物だ。だが、私はその温かさに甘えるわけにはいかない。
「子敬殿。休んでいる暇はありません。……教えていただきたい。呉の評定の間の『空気』を。……孫権様の背後に立つ者たちの、その本音を」
魯粛は溜息をつき、杯を置いた。
「……芳しくない。張昭を筆頭とする文官たちは、曹操の五十万という数字に完全に呑まれている。彼らは『降伏こそが江東の民を救う唯一の道だ』と説いている。……正直に言えば、我が主・孫権様も、その迷いの中に囚われておいでだ」
「……数字、ですか」
私は羽扇を広げ、ゆっくりと仰いだ。
「五十万。……曹操が意図的に流したその数字に、呉の賢人たちが怯えている。滑稽なことだ。……子敬殿、あなたは知っているはずだ。北の兵がどれほど水戦を恐れ、どれほどこの江東の病に脆いかを」
「私はわかっている。だが、主君を動かすには、理論だけでは足りない。……『意地』が必要なのだ」
私は、船の揺れに合わせて目を閉じた。
脳内の地図が、急速に書き換えられていく。
呉の主戦派、降伏派。それぞれの自尊心、利害、恐怖。
そして、まだ見ぬ呉の最高司令官――周瑜。
「……周公瑾殿は、今どこに?」
「彼は鄱陽で水軍を訓練している。……彼こそが呉の火種だが、彼が動くには孫権様の決断が不可欠だ。……孔明殿、貴殿は孫権様に会って、何を語るつもりだ? 劉備将軍の悲劇を語り、同情を引くつもりか?」
私は、目を開いた。
その瞳に宿る光は、もはや一介の書生のものではない。
「同情? ……そんなものは、外交の場では紙屑にも劣る。……私は孫権様に『絶望』を突きつけに行きます。……そして、その絶望の底にだけ咲く『覇道』の華を見せて差し上げるのです」
私は魯粛の酒を一口も飲まず、立ち上がった。
「子敬殿。約束してください。評定の間で、私はあなたを困らせるような無礼を働くでしょう。……ですが、それはすべて、呉の眠れる虎を目覚めさせるための『刺青』です。……決して、口を挟まないでいただきたい」
魯粛は、私のあまりの冷徹さに身震いした。
「……貴殿は、自らが呉の者たちに憎まれることを、何とも思わないのか」
「……長坂坡で、十万の民に呪われながら逃げた私です。……今更、数人の文官に憎まれたところで、何が変わるというのです」
彼は、自らの「名声」さえも燃料として、赤壁の巨大な火柱を立てる準備を終えた。
船が柴桑の港に入る。
そこには、孔明という異分子を排除しようと待ち構える、老獪な群臣たちの殺気が渦巻いていた。
「……さあ、行きましょう。……理が、どちらの首を撥ねるのか、見極める時です」




