表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/161

第四十八話:濁流の再会

第四十八話:濁流の再会


執筆:町田 由美


 長江の支流、漢水へと続く道は、逃げ惑う十万の民の血で洗われていた。

 私は馬の背に揺られながら、朦朧とする意識の中で、背後に残してきた新野の民たちの悲鳴を数えていた。

 (……私は間違えたのか。……彼らを連れて出たことで、曹操の刃をより鋭くさせてしまったのか)

 羽扇うせんは泥を吸って重く、私の白い指先は、馬の手綱を握り締める力さえ失いかけていた。横を走る趙雲(子龍)の鎧は、すでに赤黒い肉片と返り血で固まり、彼は一言も発さず、懐の阿斗を、自らの命の核であるかのように抱きかかえていた。

 その時、前方の濁った川霧の向こうから、一艘の巨大な軍船が姿を現した。

 旗には「呉」の文字。

 「……敵か!?」

 

 張飛(翼徳)が蛇矛を構える。だが、私はその船の舳先に立つ、恰幅のいい一人の男の姿に、止まりかけていた思考を呼び戻した。

 

 魯粛。字は子敬。

 私がかつて密偵を放ち、その動静を追い続けていた、呉の「良心」とも呼べる男。

 

 「……待ちなさい、翼徳殿。……あれは敵ではない。……我々の、唯一の『明日』だ」

 私は落馬するように馬を降り、泥に膝を突きながら、岸辺に接舷する船を見上げた。

 魯粛は船を下り、目前に広がる長坂坡の残骸――引き裂かれた死体、捨てられた諸葛菜の袋、そして亡霊のように立ち尽くす我らを見て、絶句していた。

 「……これが。……これが、曹操の仕業か。……諸葛孔明殿、貴殿が……あの『臥龍』か」

 魯粛の声は震えていた。私は泥を払い、あえて冷徹な笑みを浮かべて立ち上がった。

 ここで弱さを見せれば、劉備軍は呉に「憐れみ」で買われ、ただの属国に成り下がる。……私は、この「地獄」さえも、呉を戦場へ引き摺り出すための「材料」に変えねばならなかった。

 「魯子敬殿。……見ての通りです。……曹操は今、法も徳も、この大地から焼き払おうとしています。……新野が灰になった今、次に燃えるのは、あなたの呉だ」

 「……孔明殿。……私は、劉備将軍の安否を確かめ、弔問に来たのだ。……だが、この光景を見れば、弔問などという言葉はあまりに軽い」

 「弔問など不要です!」

 

 私は、魯粛の胸ぐらを掴むかのような勢いで一歩詰め寄った。

 

 「必要なのは、武器だ! 船だ! そして、曹操の首を求める『意志』だ! ……子敬殿。……あなたは、曹操に膝を屈して、この惨劇を江東でも繰り返したいのか。……それとも、我らと共に、あの怪物を長江の炎の中に葬り去るのか!」

 魯粛は、私の瞳の奥に宿る、絶望を通り越した「絶対零度の怒り」に圧倒されていた。

 

 

 「……わかった。……諸葛孔明殿。……今の言葉、我が主・孫権に直接届けていただきたい。……私は、あなたを呉へ誘う。……それが、この地獄に対する、私なりの答えだ」

 私は、魯粛の差し出した手を見つめた。

 その手の向こうには、さらなる謀略、裏切り、そして「周瑜」という名のもう一人の天才との死闘が待っている。

 

 

 彼は泥まみれの手で、魯粛の手を握り返した。

 

 「……行きましょう。……長坂坡で死んだ者たちの魂が、冷たくなる前に」

 私は、船に乗り込む直前、岸辺に打ち捨てられた諸葛餅を一つ、口に入れた。

 泥の味がした。

 だが、その不味さこそが、今の私を生かしている唯一の現実だった。

 

 「法の死」を乗り越え、孔明は今、世界を言葉で焼き尽くす「外交の怪物」へと生まれ変わろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ