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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第四十五話:長坂坡(ちょうはんは)の咆哮

第四十五話:長坂坡ちょうはんはの咆哮


執筆:町田 由美


 夜明け前の蒼茫とした光の中で、世界は砕け散った。

 地平線を埋め尽くす曹操軍の鉄騎兵「虎豹騎こひょうき」が、十万の民の列に横合いから突き刺さる。それは軍勢の衝突ではない。巨大な鎌が、柔らかな稲穂をなぎ倒していくような、一方的な「蹂躙」であった。

 「母上! 母上どこですか!」

 「逃げろ! 振り返るな!」

 赤ん坊の泣き声、老人の断末魔、そして逃げ惑う人々の足音が、冬の荒野に反響する。

 私は馬車を捨て、劉備将軍と共に血の混じった泥の中を走っていた。羽扇うせんはもはや風を呼ぶ道具ではなく、倒れそうになる体を支える杖と化していた。

 「……孔明殿! 阿斗が……家族が、はぐれてしまった!」

 劉備将軍の悲痛な叫び。徳のために民を見捨てなかった男が、今、その徳のために最愛の家族を失おうとしている。

 その時だった。

 「――殿との! ここは私にお任せを!」

 白銀の閃光が、混沌とした戦場を真っ二つに切り裂いた。

 趙雲(子龍)だ。彼は、逃げる我らとは正反対に、曹操の五十万が渦巻く死の淵へと、ただ一騎で馬を向けた。

 「子龍殿! 戻れ! 死ぬ気か!」

 張飛の声も届かない。趙雲は私が授けた「携帯食」の袋を強く握りしめ、冷たい薬湯を一口含むと、その瞳に静かな、しかし決して消えぬ決意の火を灯した。

 

 「軍師……。あなたが言った『未来の命』、私がこの槍で繋いでみせます!」

 趙雲の姿が、敵軍の波の中に消えていく。

 私は立ち止まり、その背中を、焼けるような思いで見つめていた。

 「理」が囁く。……生存確率は、限りなく無に近い。

 だが、私の心の中の「月英」が叫ぶ。……知恵を尽くせ。彼が戻るための「道」を、一秒でも長く保て。

 「翼徳殿! 長坂橋ちょうはんきょうへ!」

 私は、血を吐くような思いで張飛に命じた。

 

 「あの橋を落としてはいけません! 子龍殿が戻るまで、そして民が一人でも多く渡り切るまで、あなたが門神もんしんとなって敵を止めなさい!」

 「分かってるよ、軍師! ……おい、俺の部下ども! 死にたい奴だけ、俺の前に来い!」

 張飛は長坂橋のたもと、ただ一騎で立ち塞がった。

 追撃する曹操軍の先鋒が、その異様な威圧感に足を止める。張飛の背後で、私は僅かな手勢と共に森に火を放ち、土埃を上げさせ、大軍の伏兵があるように見せかける。……偽りの「理」。命を懸けた、最後の虚勢だ。

 「我こそは燕人えんひと、張翼徳なり! 誰か死にたい奴はおらぬか!!」

 雷鳴のような咆哮。

 橋を揺らし、曹操の兵たちの肝を冷やし、追撃の足を一瞬だけ止めさせた。

 その一瞬。

 その血に染まったわずかな時間の中に、趙雲が阿斗を懐に抱き、満身創痍で敵陣を突破して戻ってきた。

 「……殿……。……坊ちゃまは、ご無事です……」

 劉備将軍の胸に、血まみれの阿斗が抱かれる。

 夕陽が、惨劇の跡を真っ赤に染め上げていく。

 

 十万の民。生き残ったのは、わずか数千。

 私が植えた諸葛菜の袋は、多くが捨てられ、血に汚れ、持ち主を失って転がっていた。

 

 私は、膝から崩れ落ちた。

 

 

 「理」の敗北。

 「徳」の代償。

 

 彼は、泣かなかった。

 ただ、震える手で血の混じった泥を握りしめ、自分に、そして天に問いかけていた。

 

 (……これが、乱世ですか。……これが、人を救うということの重みですか)

 

 博望坡の火は、曹操という太陽を怒らせただけだった。

 新野は灰になり、民の骸が野を埋める。

 

 だが、絶望の淵で、関羽、張飛、趙雲、そして劉備が、互いの傷を庇い合いながら立ち上がる。

 その姿は、かつてのバラバラな英雄たちではない。

 

 一つの巨大な、死を越えた「絆」という名の生き物。

 

 「……孔明殿」

 

 劉備将軍が、泥だらけの私の手を取った。

 「……行こう。……夏口かこうへ。……孫権の元へ。……火は、まだ消えていない」

 

 私は立ち上がった。羽扇を掲げ、北の空――曹操が立つ場所を見据えた。

 

 「……ええ。……次はこちらから火を放ちます。……赤壁せきへき。……そこを、曹操の墓場に変えましょう」

 

 孔明は、この日、真の意味で「軍師」になった。

 命を数えることをやめ、命を懸けることを選んだ男の瞳に、赤壁を焼く紅蓮の炎が、すでに映り始めていた。



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