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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第三十三話:博望の采

第三十三話:博望の采配


執筆:町田 由美


 新野の夜は、不気味なほどに凪いでいた。

 だが、私の手元に届く情報の断片は、北の地平が曹操という巨大な津波によって飲み込まれつつあることを告げていた。先鋒、夏侯惇かこうとん。兵数、十万。対する新野の兵は、かき集めても数千に満たない。

 私は、劉備将軍の執務室の最奥に、一振りの「剣」と、将軍の権威を示す「印綬」を置かせた。

 

 「……兄者、これはいったい何の真似だ!」

 

 張飛の怒声が、部屋の梁を震わせた。

 現れた関羽も、柳眉を逆立て、私を射抜くような鋭い視線を向けている。

 

 「この若造に、我ら兄弟を差し置いて『総指揮』を執らせるというのか? しかも、戦の経験など一度もない、ただの農夫に!」

 

 私は、机の前に静かに座り、月英殿から贈られた羽扇うせんをゆっくりと動かした。扇から生まれる冷たい風が、部屋に充満する男たちの熱気を、薄氷のように切り裂いていく。

 

 「……張将軍。戦とは、力比べの場ではありません。……ことわりの正しさを証明する場です。……曹操軍は十万。真っ正面からぶつかれば、一刻と持たずに新野は灰になるでしょう。……それでも、あなたは『経験』という名の玉砕を望まれるのか」

 

 「貴様……!」

 

 「お静かに。……これより、軍令を下します」

 

 私は、劉備将軍から託された剣を、静かに手に取った。

 その重みは、私がこれまで読んできた数千冊の書物よりも重く、掌に冷徹な覚悟を刻み込んできた。

 

 「関将軍。あなたは兵千を率い、博望坡はくぼうはの左、豫山よざんの麓に伏せなさい。……敵の先鋒が通り過ぎ、火の手が上がった時こそが、あなたの『義』を示す時です。……一刻も早く、一刻も遅れてもいけません」

 

 関羽の頬の筋肉が、不快そうに引き攣れた。

 「……軍師殿。我に、隠れて待てと申すか。正面から敵を討つのが、我が道なのだが」

 

 「あなたの『道』は、劉備将軍を救うためにあるはずだ。……違いますか?」

 

 私の問いに、関羽は言葉を失った。私は続けざまに、張飛に目を向けた。

 

 「張将軍。あなたは兵千と共に、博望坡の右、林の奥に潜みなさい。……敵の軍勢は、我が軍の『偽りの敗走』に必ず食いつく。……彼らが狭い谷間に誘い込まれた瞬間、あなたがすべきことは、ただ一つ」

 

 私は羽扇で、地図上の一点を強く叩いた。

 

 「――火を放ちなさい。……草木を、風を、そして敵の慢心を、すべて炎の中に沈めるのです」

 

 張飛は、呆気に取られたように私を見た。

 「火だと……? 策など弄さず、この蛇矛で叩き斬れば済むことだ!」

 

 「その蛇矛で、十万の喉を一度に貫けますか? ……私には、それができます。……この『知恵』という名の武器を使えば」

 

 私は立ち上がり、劉備将軍に向かって深く一礼した。

 

 「将軍。……博望坡を、真っ赤な紅蓮の庭に変えてみせましょう。……それが、私からあなたへの、最初の進物です」

 

 劉備は、私の瞳に宿る、かつて見たこともないほど深く、暗い「叡智」の光を信じ切ったように頷いた。

 「……全軍、軍師の命に従え。……これに背く者は、私を裏切るものと見なす」

 

 関羽と張飛は、忌々しげに印綬を睨みつけながらも、私の前に膝をついた。

 だが、その心まではまだ、屈服してはいない。

 

 彼らが去った後、私は一人、暗い部屋で羽扇を見つめた。

 月英殿の顔が浮かぶ。

 

 (月英殿。……私は今から、地獄を現実に召喚します。……あなたの愛した『理』が、数万の命を焼き払うための道具になる。……どうか、私の手が震えぬよう、見ていてください)

 

 

 

 初陣、博望坡の戦い。

 

 歴史という名の盤面に、彼は最初の「火種」を投げ入れた。

 その炎は、新野の夜空を、そして彼の未来を、永遠に変えてしまうほどの質量を持っていた。


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