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『諸葛孔明 星辰の理(ことわり)』  作者: velvetcondor guild


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第二十九話:臥龍の脱皮

第二十九話:臥龍の脱皮


執筆:町田 由美


 隆中の夜は、第二十八話:賢者の咆哮あまりにも静かだった。

 二度目のすれ違いから、季節は音を立てずに動き、厳冬の鋭さは、湿り気を帯びた春の予感へと溶け出し始めていた。

 だが、私のいおりを包む空気だけは、研ぎ澄まされた抜身の刀のように、冷たく、そして張り詰めていた。

 私は、土間に腰を下ろし、慣れ親しんだ農具の手入れをしていた。

 すきの刃にこびりついた乾いた泥を、小刀で一つひとつ、丁寧に削ぎ落としていく。

 カリッ、カリッ……という乾いた音だけが、闇に響く。

 

 「……兄様。もう、それは使わないんでしょう?」

 

 きんが、部屋の隅で古い竹簡を整理しながら、寂しげに呟いた。

 私は、削る手を止めなかった。

 

 「使うさ。……ただし、これからはこの土を耕すのではなく、天下という名の荒野を耕すことになる。……均、お前はここに残れ。……そして、この家を、この畑を、叔父上の思い出を、守り続けてくれ」

 

 「……兄様。本当に行くんだね」

 

 均が立ち上がり、私の背中に歩み寄る。

 かつて、徐州の地獄を、泥にまみれて二人で逃げ惑ったあの日。

 叔父上の冷たくなった手を握りしめ、震えていた幼い兄弟。

 その時間が、この隆中の十数年で、ようやく「歴史」へと変わろうとしていた。

 

 私は、手入れの終わった鋤を、壁に立てかけた。

 

 「均。……私は、あの日誓ったのだ。……二度と、理不尽な暴力に、大切な者を奪わせはしないと。……私がこれから向かうのは、血の雨が降る戦場だ。……だが、そこへ行かねば、この隆中のような静かな夜は、永遠にこの大地に戻ってはこない」

 

 私は立ち上がり、月英げつえい殿が待つ工房へと向かった。

 

 工房では、月英殿が一本の、漆黒の羽扇うせんを仕上げていた。

 それは、白鳥の羽を幾重にも重ね、柄には複雑な組紐が施された、機能美と神秘性を兼ね備えた逸品だった。

 

 「……孔明様。……これをお持ちください」

 

 彼女は、羽扇を恭しく両手で差し出した。

 

 「戦場では、心は常に乱れ、熱に浮かされます。……その扇で、自らの熱を鎮め、常に『冷徹なる理』を保ってください。……そして、迷った時は、この羽の一枚一枚に、私が込めた『具体』が宿っていることを思い出してください」

 

 私は、羽扇を受け取った。

 驚くほど軽く、そして振れば、隆中の竹林を吹き抜ける風と同じ、清冽な冷気が生まれた。

 

 「……月英殿。……私は、あなたをここに残していく。……それは、私の心の一部を、この隆中に置いていくことと同じです」

 

 「分かっております。……私は、あなたの『風』です。……どこにいても、あなたの火が正しく燃えるよう、私はこの隆中の土を守り、知恵を練り続けます。……いつか、あなたが『星』ではなく、この大地を照らす『陽』となって戻られる日まで」

 

 

 

 私たちは、言葉を超えた沈黙の中で、しばし見つめ合った。

 

 月光が、工房の窓から差し込み、二人の影を一つの大きな形へと繋ぎ合わせる。

 私の内側にあった「孤独な龍」が、彼女の慈しみという鱗を纏い、真の意味で「飛翔」の準備を整えた夜。

 

 そして、運命の朝が来た。

 

 建安十二年、春。

 隆中の山道を、三度、あの蹄音が登ってくる。

 

 だが、今度の蹄音は、これまでとは違っていた。

 そこには、焦燥も、疑念もない。

 ただ、天命を信じ切り、己の全存在を賭けて一人の人間に会いに来る、巨大な「意志」の響きがあった。

 

 私は、均に命じた。

 

 「均。……客人が来られたら、通しなさい。……私は、奥で少し眠っている」

 

 「え? 兄様、こんな時に寝るの?」

 

 「ああ。……覚悟を決めた男を待つのに、騒ぎ立てる必要はない。……私は、私の『最後の静寂』を、彼と共有したいのだ」

 

 私は、羽扇を傍らに置き、目を閉じた。

 

 

 

 外では、劉備、玄徳が、雪解けの泥に跪き、門が開くのをじっと待っている。

 一刻、二刻……。

 

 時間の質量が、この隆中の一点に凝縮されていく。

 歴史が、息を止めた。

 

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