第二十四話:梁父の残響
第二十四話:梁父の残響
執筆:町田 由美
隆中の春は、時に残酷なほどに美しい。
陽光が若竹の節を黄金色に染め、大地の底からは目に見えぬ命の胎動が、微かな土の香りを伴って立ち上がってくる。
私は、鋤を地面に突き立て、荒い息を吐きながら額の汗を拭った。
均が私の背後で、崔州平から届いた密書を読み上げている。
「――襄陽の酒肆では、兄様の命じた通り『梁父吟』が、誰彼となく歌い継がれているそうです。蔡氏の兵たちも、それが誰の作とも知らず、ただの流行り歌として口ずさんでいるとか……」
私は、遠くの山並みを見つめた。
「梁父吟」は、かつて斉の晏子が三人の勇士を「二つの桃」で相争わせ、自滅させたという故事を歌ったものだ。
一見すれば単なる挽歌だが、その底には「知略が武勇を制し、秩序が混沌を断つ」という、極めて冷徹な政治的意志が隠されている。
私がこの歌を流布させたのは、単なる自己顕示ではない。
今、この荊州の混乱の中で、「知を求める者」がどこにいるのかを、炙り出すための撒き餌だ。
「兄様。……本当に来るのでしょうか。その、劉備というお方が」
均の問いに、私は答えなかった。
劉備、玄徳。
黄巾の乱から立ち上がり、公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹と、名だたる英雄たちの間を渡り歩きながら、いまだに一国の主となれぬ男。
常識で考えれば、それは「敗北者」の経歴だ。
だが、彼は敗れるたびに、その名を天下に轟かせてきた。
領地を失っても、彼のもとを去らぬ関羽、張飛という「怪物」を繋ぎ止めているのは、兵権でも金銭でもない。
それは、この乱世が失いかけている「任侠」という名の、あまりにも非効率で、あまりにも強烈な人間関係の鎖だ。
(私の『法』と、彼の『情』。……もし、この二つが噛み合えば、それは未だ誰も成し得なかった、新たな秩序の核となるはずだ)
私は鋤を再び土に打ち込んだ。
その感触は、どこかあの日、月英殿と一緒に作った器械の歯車が噛み合う瞬間の手応えに似ていた。
数日後。
隆中の廬の入り口に、一人の男が姿を現した。
鎧の上から粗末な戦袍を纏い、顔には幾多の戦場を潜り抜けてきた者の刻印が刻まれている。
だが、その男は私の廬を訪ねに来たのではない。
「……済まぬが、道を。……この先に、臥龍と呼ばれる賢者が住まうと聞いたが、間違いはないか」
男の名は、徐庶、元直。
かつて州平たちの間で語られていた、撃剣の使い手でありながら、のちに学問に転じた異色の英才。
私は手を止め、彼を見据えた。
「道は、足元にありますよ、元直殿」
私は彼が名乗る前に、その名を呼んだ。
徐庶の瞳に、驚きの色が走る。
「……なぜ、私の名を知っている」
「この隆中を訪ねる者が、剣の重さと筆の香りを同時に纏っていれば、それは元直殿以外にあり得ないからです」
徐庶は、苦笑いを浮かべて馬を繋いだ。
「……水鏡先生が仰った通りだ。……孔明。……新野に、一人の主がおられる。……今、そのお方は、自らの限界に、そしてこの乱世の厚い壁に、頭をぶつけ、呻いておられる」
徐庶は、私の前に膝をつくようにして座った。
「……お前の『梁父吟』を聴いた。……あれは、挽歌ではない。……新しい時代の夜明けを告げる、産声だろう? ……孔明。……その声を、私の主に、聴かせてやってはくれぬか」
廬の竹林が、ざわめいた。
歴史という名の巨大な水車が、ついに最初の一回転を始めた。
私は徐庶の瞳の奥に、かつて叔父上が語った「真実の法」を求める、渇いた魂の輝きを見た。




