第百五十五話:再授の印、腐食する聖域
第百五十五話:再授の印、腐食する聖域
執筆:町田 由美
西暦259年、成都。
姜維の前に、再び「大将軍」の印が置かれた。だが、その印を差し出したのは劉禅ではなく、その背後で嘲笑を浮かべる宦官・黄皓であった。
「姜大将軍……。また北へ行かれるのですか? 陛下は、戦よりもこの成都の平和を愛しておいでです。……ほどほどに、なさいませよ」
黄皓のねっとりとした声が、宮殿の空気を汚す。姜維は黙って印を掴み、背を向けた。
大将軍府に戻った姜維を待っていたのは、密偵一号からの衝撃的な報告であった。
「伯約様……。黄皓が、漢中の守りの要である『外郭の防衛線』の予算を削り、自分の私邸と道士への供え物に回しています。……このままでは、魏軍が攻めてきた際、漢中はひとたまりもありません」
妻・諸葛氏は、密偵の中で培った冷徹な筆致で、崩壊しつつある防衛拠点のリストを姜維に示した。
「……伯約様、これが『内なる敵』の正体です。司馬昭が十万の兵を送るよりも、この一人の小人が蜀を滅ぼそうとしています」
(天の声:諸葛孔明)
「……劉禅よ、なぜそれほどまでに目が曇った。……伯約、すまぬ。私がお前に遺したのは、司馬一族という強敵だけでなく、この腐りゆく朝廷という、救いがたい泥沼であったか」
(チャチャ入れ:司馬懿)
「……カカカ! 見ろ、孔明! これが人間の本性よ! どんなに高潔な理想を掲げても、内側の欲が全てを台無しにする。……昭よ、手出しは無用だ。姜維が北で鄧艾と睨み合っている間に、黄皓というシロアリに蜀の柱を食い尽くさせればよい!」
姜維は、震える手で妻の肩を抱いた。
「……私は、先生からこの国を託された。たとえ成都が腐り果てようとも、私はこの剣を捨てるわけにはいかない」
「伯約様。……成都の闇は私にお任せください。大叔父様が遺された『密偵の真価』、今こそ見せる時。黄皓が何を企もうと、漢中の要衝は私が『影』の予算で維持してみせます」
諸葛氏は、かつて叔父・諸葛誕が死を以て守った一族の誇りを胸に、自らも闇へと沈む決意を固める。
彼は、表では大軍を率いて魏を牽制し、裏では妻が支える「影の蜀漢」と共に、滅びの足音に抗い続ける。
(チャチャ入れ:司馬懿)
「……おい、孔明。お前の姪、わしの真似をしておるぞ。表向きの法を無視して、裏で軍を動かす……。あれはもはや、わしと同じ『野心家』のやり口ではないか!」
(天の声:諸葛孔明)
「……仲達。彼女が守ろうとしているのは『私欲』ではない、『志』だ。……その違いを、お前は永遠に理解できぬのだろうな」




