第百五十一話:狄道の残照、決断の退路
第百五十一話:狄道の残照、決断の退路
執筆:町田 由美
西暦255年、十月。
狄道の大勝に沸く蜀軍。だが、姜維の眼は冷めていた。包囲した狄道城は、魏の陳泰の増援によって、不落の要塞と化していた。
「伯約様、報告です。陳泰は真っ向から我らと戦わず、高所を占拠して我が軍の補給路を断とうとしています」
妻・諸葛氏が、密偵が持ち帰った最新の布陣図を広げる。そこには、鄧艾をも動員し、蜀軍を山間に閉じ込めようとする魏軍の緻密な包囲網が描かれていた。
史実における陳泰の策――「戦わずして姜維を枯らす」という、司馬懿譲りの兵法であった。
「……これ以上の強行軍は、兵を無駄に死なせるだけか」
姜維は、目の前に広がる長安への道を睨みつけた。あと一歩、あとわずか一歩で、先生の悲願が届くところまできていた。だが、冬の寒気は厳しく、兵糧の限界も近い。
(天の声:諸葛孔明)
「……仲達よ。陳泰は見事だ。お前が磨き上げた『守守』の兵法を、これほどまでに徹底させるとはな。伯約の熱意を、静寂で押し返している」
(チャチャ入れ:司馬懿)
「……フン、当然よ。陳泰はわしの教え子の中でも、最も『我慢』を知る男。孔明、お前の弟子がここを突っ込めば、二度と漢中へは帰れまい。……引け、姜維。今はそれしか道はない」
姜維は、夏侯覇と趙の若武者を呼び寄せた。
「全軍、撤退を開始する。しんがりは私が務める。趙の若龍、お前は夏侯覇殿と共に、傷ついた兵を先に漢中へ送り届けよ」
「……大将軍、悔しくはないのですか!」
若武者の叫びに、姜維は静かに首を振った。
「悔しさは、次なる勝利への糧とする。生き残ることこそが、蜀漢の正義だ」
姜維は、妻が用意した隠密の撤退路を使い、魏軍に一兵の損害も与えさせることなく、整然と鐘武まで引き揚げた。
大勝の後の撤退。それは、姜維にとって最も精神を削られる決断であったが、その背中に、天上の孔明は確かな「成長」を見た。
(天の声:諸葛孔明)
「……伯約。お前は今日、勝利よりも重い『敗北の回避』を成し遂げた。……それができる将こそが、真の国士だ」
(チャチャ入れ:司馬懿)
「……ちっ、面白くない引き際だ。だが、これで蜀の国力は再び疲弊した。……司馬昭よ、次は『反撃』の時間だ。姜維に、休む暇を与えるな」
漢中へと戻る山道で、彼は冷たい風に吹かれながら、次なる戦いの火種――「段谷の悲劇」の予感に身を震わせていた。




