第百九話:南方の狂瀾、七縦七擒の幕開け
第百九話:南方の狂瀾、七縦七擒の幕開け
執筆:町田 由美
西暦225年。蜀漢の丞相として南征の途に就いた私は、四十四歳になっていた。
眼前に広がるのは、中原の常識が通用せぬ、湿り気を帯びた深い密林。そして、そこに君臨するは「南蛮王」孟獲である。
「丞相! 先鋒より報告。……死んだと思われていた関羽将軍の三男、関索殿が生きておりました! 今、軍列に加わり、獅子奮迅の働きを見せております!」
若き関索の合流に、軍内は沸き立った。彼は父・雲長譲りの武勇を南方の異民族相手に遺憾なく発揮し、関興、張苞らと共に新生・蜀軍の「若き三羽烏」として戦場を駆けた。
だが、真の戦いはここからであった。
孟獲の背後から現れたのは、火神の末裔を称するその妻、祝融夫人。
「……男たちが情けないから、私が出るしかないようね」
彼女は背中に五振りの飛刀を背負い、燃えるような紅い馬に跨って現れた。その美しくも恐ろしい姿に、我が軍の将たちは気圧された。祝融の放つ飛刀は、一寸の狂いもなく我が軍の勇将たちの隙を突き、戦場を混乱に陥れた。
「……ふむ。孟獲だけでなく、その妻までもがこれほどの執念を持つか。……面白い」
私は羽扇を仰ぎ、冷徹に陣を組み替えた。
一、孟獲を罠にかけ、錦の袋に閉じ込めて捕らえる。
二、酒と肉を与え、丁重にもてなす。
三、そして、こう告げるのだ。
「……王よ。……私の陣はどうだ。……もう一度戦えば、勝てると思うか」
孟獲は顔を真っ赤にして叫んだ。「たまたま道が狭かっただけだ! 次はこうはいかんぞ!」
私は微笑み、縄を解かせた。
「……ならば、もう一度お帰りなさい。……納得するまで、何度でもお相手しましょう」
趙雲殿や魏延殿は困惑した。「丞相、なぜ生かして帰すのです。今ここで首を跳ねれば、南は鎮まるはずです!」
「……いや。……首を斬れば、彼らの心の中に永遠の憎しみが宿る。……私が欲しいのは、彼らの命ではなく、この広大な南方の『平穏』だ。……彼らが心から『漢には勝てぬ』と屈服するまで、私は七度、この王を放つ」
二度目、三度目……。
戦場はさらに奇抜さを増していく。
孟獲は、象の皮で作った無敵の甲冑を纏う「藤甲兵」を繰り出し、猛獣を操る「木鹿大王」を招き入れた。さらには、毒の泉が湧き出る「四ツの泉」の難所へと私を誘い込む。
だが、私は動じない。
四十四歳の私は、毒泉を浄化するための薬草を現地で調達し、象を驚かせるための火の仕掛けを考案した。
孟獲がどんなに奇抜な策を弄しても、私の羽扇の一振りが、すべてを虚無に帰していく。
「……王よ。……これで五度目だ。……まだ、私の知略が偶然だと思うか」
捕らえられた孟獲の前に、私は再び酒を用意した。祝融夫人もまた、私の仕掛けた「美しき罠」にかかり、不本意ながら夫の隣に座らされていた。
「……丞相。……貴方は、人間ではない。……山の神か、それとも天の使いか」
祝融夫人が、その鋭い瞳に隠しきれぬ畏怖を浮かべて呟いた。
「……いいえ、夫人。……私はただ、亡き我が君の遺した『信』という言葉を、この南方の地にも植え付けに来ただけの、一人の男に過ぎません」
西暦225年。
猛暑と湿気に包まれた南方の戦場は、一人の丞相が仕掛ける、残酷なまでに慈悲深い「知恵比べ」の舞台と化していた。
六度、七度。
孟獲の誇りが少しずつ削り取られ、代わりに、この成都の丞相への抗いがたい「敬意」が、蛮族たちの心に深く根を張り始めていた。
「……士元殿。……見ていますか。……武力を使わず、心を獲る。……これが、私の描く『国』の守り方です」
彼は、南方の空に輝く南十字星を見上げながら、ついに孟獲が膝を屈する「最後の一刻」が近づいていることを確信していた。




