第百八 話 :丞相の孤独、南方の火影
第百八 話 :丞相の孤独、南方の火影
執筆:町田 由美
西暦223年、秋。成都の空は高く澄み渡っていたが、私の胸中は荒れ狂う嵐の中にあった。
私は、今や蜀漢の「丞相」として、政務のすべてを一人で司っていた。即位したばかりの陛下(阿斗様)はまだ若く、諸将の意見をまとめ、国の方針を定めるのはすべて私の役割であった。
「丞相、南方の益州郡にて雍闓が叛き、異民族の王・孟獲がこれに呼応したとの報せです。南の火の手は、成都を揺るがす勢いにございます!」
私は、地図を見つめた。
我が君の死に乗じた叛乱。だが、私は焦らなかった。北の魏、東の呉との均衡を保ちつつ、まずはこの足元の火を消さねばならない。
私は、宮中の編成をさらに盤石なものとした。
陛下には、宮中の規律を正すために董允や郭攸之を配し、軍事の要には趙雲殿、そして私の右腕として、亡き法正に代わり**蒋琬や費禕**を抜擢した。
「趙雲殿。あなたは成都に残り、陛下の盾となっていただきたい。……私は自ら南へ向かい、孟獲の首ではなく、その『心』を獲りに行く」
諸将は驚いた。討伐ではなく、心を獲るとは何事か。
だが、私は知っていた。武力でねじ伏せても、私が北伐で成都を空にすれば、南は再び叛く。南を「蜀の一部」として心から従わせなければ、漢王朝の復興という我が君の夢は永遠に叶わないのだ。
私は出陣の準備を進める中、ふと亡き我が君の言葉を思い出した。
『阿斗を頼む。お前が父と思え』
陛下の寝所を訪ねると、陛下は不安そうに私を見上げた。
「丞相……いや、父上。……私は、あなたがいなければ、何も決められません。……どうか、早く戻ってきてください」
その幼い言葉に、私は胸を締め付けられた。
「陛下。……臣は、陛下の影となり、道となる者。……たとえこの身が南の蛮地に朽ち果てようとも、陛下の座す成都の平穏だけは守り抜きます」
私は、妻・月英に、南方の過酷な気候に耐えうる新たな装備、そして瘴気を払うための秘薬を準備させた。
これからは、私の知恵がそのまま国の「命」となる戦いだ。
「……士元殿。……我が君がいなくなったこの国を、私は一人で動かさねばならない。……孤独だ。……だが、この孤独こそが、私の捧げるべき忠義なのだ」
西暦224年、春。
丞相・諸葛孔明、自ら南征の途に就く。
白羽扇を揺らし、険しき山々を越えて、彼は野獣の如き王・孟獲の待つ未知の戦場へと足を踏み入れた。




