第百六話:白帝城の託孤、龍の魂を継ぐ者たち
第百六話:白帝城の託孤、龍の魂を継ぐ者たち
執筆:町田 由美
西暦223年、四月。永安(白帝城)の風は湿り気を帯び、生命が芽吹く季節だというのに、城内の寝所には死の影が色濃く漂っていた。
私は、我が君の枕元に跪き、その細くなった手を握りしめていた。
「……孔明殿。……近くへ。……もっと近くへ」
我が君の声は、枯れ葉が擦れるほどにか細かった。傍らには、魯王(劉永)、梁王(劉理)が並び、父の最期を呆然と見守っていた。さらに、その背後には関興、張苞、そして罪を背負うように跪く劉封の姿もあった。
「……孔明殿。……私は、君という稀代の天才を得ながら、その知恵を復讐のために無駄に消費してしまった。……君が貿易で蓄え、農民たちが慈しんだ蜀の財産を、私は夷陵の火の中に投げ込んだ。……すまない。……本当に、すまない……」
我が君の目から、一筋の涙が頬を伝った。私は、その涙を拭うことも忘れ、ただ王の言葉を魂に刻んだ。
「……君の才は、曹丕の十倍、いや百倍だ。……君ならば、必ずやこの国を安んじ、天下を平らげることができる。……もし、我が子・阿斗が補佐するに足る器であれば、助けてやってほしい。……だが、もし彼にその才がなければ……君が自ら、成都の主となれ」
私は全身が震えるのを感じ、床に額を打ち付けた。
「……我が君! 何ということを仰いますか! 私は、粉骨砕身し、股肱の臣としての忠誠を貫くのみです。……決して、そのような大逆の心は持ち合わせませぬ!」
我が君は微かに微笑み、息子たちを呼び寄せた。
「……永よ、理よ。……よく聞け。……私が逝った後、お前たちは諸葛丞相を『父』と思え。……何事も相談し、丞相の教えに従うのだ。……それが、お前たちが生き残り、この国を繋ぐ唯一の道だ。……分かったか」
子たちは、泣きじゃくりながら何度も頷いた。
さらに、我が君は関興と張苞、そして劉封を順に見据えた。
「……お前たちも、父たちの義を継げ。……だが、復讐のために生きるな。……孔明殿が造り上げる『法』と『富』の中で、民を守る盾となれ」
その言葉は、劉封にとっては赦しであり、関興と張苞にとっては新たな使命であった。
「……孔明殿。……最後に、ひとつだけ。……月英殿によろしく伝えてくれ。……彼女の知恵が産んだあの『鋼の鎧』がなければ、私は白帝城まで辿り着けなかった。……ありがとう。……私の人生に、君という龍が現れてくれたことに……感謝している」
その言葉を最後に、我が君・劉備の指先から力が抜けた。
西暦223年、四月二十四日。乱世の梟雄にして、義に生きた龍、劉備元徳、崩御。
城内に地を這うような号哭が響き渡る中、私は、立ち上がることができなかった。
石兵八陣、鋼の軍団。それらすべては、この人の「夢」を叶えるための道具に過ぎなかった。
「……我が君。……おやすみなさい。……あなたは、雲長殿と翼徳殿のもとへゆかれるのですね。……私は、この残された『負債』と『子供たち』を背負い、地獄のようなこの現世で、あなたの夢の続きを独りで描き続けます」
彼は、自らを「父」と呼ぶことになった主君の息子たちの手を引き、白帝城の霧の中へと歩き出した。
もはや、甘えは許されない。
蜀漢という、脆くも美しい小国を、世界で最も強固な「要塞」へと変えるための、本当の孤独な戦いがここから始まる。




