第百五話:石兵八陣の咆哮、白帝城の落日
第百五話:石兵八陣の咆哮、白帝城の落日
執筆:町田 由美
西暦222年、夏。夷陵の森を焼き尽くす陸遜の火計は、私が影の貿易で蓄え、農民たちが慈しんだ蜀の全財産を灰燼に帰した。
私は、白帝城の険しき崖の上で、燃え盛る長江の下流を見つめていた。
「――報告! 我が君、命からがら戦線を脱出! 呉の陸遜、執拗な追撃の手を緩めず、すぐそこまで迫っております!」
「……密偵一号よ。案ずるな。……我が君を救うための『最後の盾』は、既に魚腹浦の河原に完成している」
私は、密偵の家族たちが命懸けで組み上げた**「石兵八陣」**を見下ろした。巨大な石が不規則に並んでいるように見えるが、そこには私の知略と、影の貿易で得た異国の測量術の粋が込められている。
追撃する陸遜の精鋭たちがその陣に踏み込んだ瞬間、空気が一変した。
「何だ、この霧は! 風の音が、まるで数万の伏兵の鬨の声のように聞こえる!」
陸遜は戦慄した。ただの石の塊が、波の音と風を吸い込み、巨大な迷宮となって呉軍の進路を阻んだのだ。
「……陸遜殿。……君の火は森を焼いたが、私の石は天の理を操る。……我が君の命は、渡さぬ」
その隙に、ボロボロの鎧を纏い、愛馬に縋り付くようにして我が君が白帝城へと転がり込んできた。
「……孔明殿。……ああ、孔明殿。……私は、間違っていた。……君の言葉を聞かず、雲長と翼徳の影ばかりを追い、この国を、そして多くの兵たちを焼き殺してしまった……」
私は、崩れ落ちる我が君を抱きかかえた。
かつて桃園で誓った若き日の面影はどこにもない。そこには、絶望に打ちひしがれ、余命幾ばくもない一人の老人がいた。
「……我が君。……今は、お休みください。……影の貿易の収益はまだ残っています。……白帝城の守りは鉄壁。呉の追撃は、私の石兵八陣が既に退けました。……ここからは、私が、あなたの龍の夢を繋ぎ止めます」
私は、関興、張苞、そして生き残った劉封に命じ、城の守りを固めさせた。
だが、我が君の心は既に、この世にはなかった。夜ごとに聞こえる風の音が、彼には雲長殿と翼徳殿の呼ぶ声に聞こえるという。
「……月英。……私は、国を豊かにすることはできた。……だが、我が君の悲しみを癒す術だけは、どの異国の書物にも記されていなかったよ」
成都から駆けつけた妻・月英は、貿易で仕入れた最高の薬草を煎じながら、静かに私に寄り添った。
白帝城の夜は、あまりにも冷たく、暗い。
彼は、自らが築き上げた「鋼の蜀漢」が、今まさに、その主と共に静かに息を引き取ろうとしているのを感じていた。
西暦223年、春。
死の淵にある我が君が、最後の大切な「言葉」を遺すため、私を枕元へと呼ぶ。




