第百四話:石兵八陣の胎動、呪われた呉の勝機
第百四話:石兵八陣の胎動、呪われた呉の勝機
執筆:町田 由美
西暦221年、夏。
復讐の鬼と化した劉備王が率いる蜀の全軍――影の貿易で得た鋼の武具を纏い、自国の麦で腹を満たした精鋭四万――が、長江を真っ赤に染めながら東へと下っていた。
随行するメンバーには、父の仇を討たんとする若武者、関興と張苞。そして、かつて「阿斗殿がいながら養子を重用した」結果として、今や王の目の敵とされつつも、死地を求めるように従軍する劉封。さらに、老いてなお盛んな黄忠が名を連ねていた。
成都を預かる私は、この軍勢の行く末に、もはや勝利の二文字を見出すことはできなかった。
「密偵一号、およびその家族たちよ。……至急、白帝城の近く、魚腹浦の河原に、巨大な石の陣を築け。……影の収益のすべてを投じ、人夫を動員せよ。……これは敵を殺すためではない。……敗走する王を、死の淵から救い出すための『迷宮』だ」
私は密偵たちに、古の遁甲の術に基づいた図面を渡した。それが後に伝説となる「石兵八陣」である。
一方で、呉の陣営では異様な事態が起きていた。
関羽雲長を討ち取った呉の英雄たちが、まるで「軍神の呪い」に触れたかのように、次々とこの世を去っていたのである。
「……密偵より報告。呉の総司令官・呂蒙、関羽将軍の死後、謎の病(あるいは発狂)により急死。……さらに、将軍・甘寧(興覇)も戦死。……関羽を捕らえた潘璋も、関興殿の刃の前に倒れたとのこと」
私は、書斎で独りごちた。
「……呉に人無し、か。……主要な猛将たちが呪われるように消え、残されたのは、若すぎて実績のない**陸遜(伯言)**という書生上がりの将のみ。……だが、王はそれを『呉の弱体化』と見誤った。……それこそが、陸遜が仕掛けた最大の罠だというのに」
呉は、古参の将たちが死に絶えたことで、皮肉にも「陸遜」という一人の天才による、合理的で冷徹な指揮系統が完成してしまったのだ。情念で動く蜀軍に対し、陸遜は冷たく計算された「火」を準備していた。
「……王よ。……あなたの目には、今も桃園の幻が見えているのでしょう。……ですが、陸遜の目に見えているのは、枯れた森と、風の向きだけだ。……鋼の鎧も、満たされた腹も、猛火の前では無力に等しい」
私は成都で、妻・月英と共に、白帝城へ向けて最後の救援物資を送り出した。
中身は武器ではない。火傷の薬と、敗残兵を収容するための膨大な食糧。
「月英……。私はこれから、自分の造り上げた最高の軍隊が、灰になるのを見守らねばならない。……石兵八陣が、せめて王の魂だけでも繋ぎ止めてくれることを祈るばかりだ」
西暦222年。
夷陵の深い森に、陸遜の放った一筋の火が投げ込まれた。
蜀漢が誇る「鋼の兵站」が、一瞬にして地獄の業火へと変わる。
彼は、白帝城の霧の向こうに、沈みゆく龍の姿を、そして、すべてを呑み込む石の迷宮の咆哮を聞いた。




