第百三話:猛将の落日、引き裂かれた桃園
第百三話:猛将の落日、引き裂かれた桃園
執筆:町田 由美
西暦221年。成都の空は、重く垂れ込める暗雲に覆われていた。
関羽殿を失った劉備王の唯一の支えは、張飛(翼徳)殿の存在であった。だが、閬中を守る張飛殿もまた、魂の半分を失っていた。
「……雲長、待っておれ! 今すぐ呉の犬どもを噛み殺しに行ってやる!」
張飛殿は連日、影の貿易で得た上質な酒を、浴びるように飲んでいた。酒の力で悲しみを紛らわせ、その苛立ちを部下たちへの苛烈な鞭打ちに変えた。
「軍師、翼徳殿が危うい。……兵たちの目が、もはや忠誠ではなく、恐怖と憎悪に染まっています」
密偵一号の報告に、私は背筋が凍る思いがした。私はすぐに、張飛殿へ「部下を慈しみ、酒を控えるように」との親書を送ったが、悲しみという毒は、すでに彼を蝕んでいた。
そして、運命の夜が来る。
張飛殿が酔い潰れて眠る中、かつて彼に鞭打たれた部下・張達と范彊が、闇に乗じて寝所に忍び込んだ。影の貿易で鍛えられた鋭い刃が、無防備な猛将の喉を貫いた。
三國一の武勇を誇った男の最期は、戦場での華々しい散り際ではなく、部下の裏切りによる、惨めな暗殺であった。
「――報告! 張飛将軍、部下に殺害され、その首は呉へと持ち去られました!」
成都の玉座でその報を聞いた劉備王は、叫ぶことすらできなかった。
「……ああ、翼徳。……お前まで、私を置いてゆくのか」
王の瞳から、光が消えた。その瞬間、彼は「蜀の王」であることを辞め、ただの「復讐の鬼」と化した。
この場には、父たちの遺志を継がんとする二世たちがいた。
関羽の次男・関興。そして、父・張飛の非業の死に悶える張苞。
「軍師! 叔父上(関羽)に続き、親父まで……! もはや言葉はいらぬ。呉の連中を皆殺しにするための兵を、今すぐ出してください!」
彼らは、影の貿易で磨き上げた父の武器を手に、怒りに震えていた。
私は、その横で立ち尽くす養子・劉封に目をやった。
「……劉封殿。あなたは関羽殿を助けず、今また張飛殿を失うという、この地獄の入り口に立っている。……王があなたをどう処遇するか、私にももはや予測がつかぬ」
劉封は、利発そうな顔を青ざめさせ、ただ震えていた。正嫡の阿斗(劉禅)様が幼い中で、養子である彼への風当たりは、一族の死によって殺意へと変わっていた。
私は、最愛の妻・月英に、戦装束を整えさせた。
「……月英。桃園は、枯れた。……残されたのは、復讐に狂う王と、憎しみに染まった若者たちだけだ。……私が積み上げた富も鋼も、すべてこの復讐の炎に投げ込まれることになるだろう」
月英は、私の手を強く握った。
「孔明様。……それでも、あなたは阿斗様と、この国の未来を繋ぎ止めなければなりません。……たとえ、王がすべてを焼き尽くそうとしても」
西暦221年、夏。
劉備は帝位に就くと同時に、全軍に東下を命じた。
「桃園の誓い」の最後に残った一人が、二人の弟の首を求めて、地獄の業火へと突き進む。
孔明は、成都の城門に立ち、消えゆく龍の背中を、ただ絶望と共に見送るしかなかった。




