第百二話:桃園の残響、枯れゆく龍の涙
第百二話:桃園の残響、枯れゆく龍の涙
執筆:町田 由美
西暦220年、春。成都の宮城は、重苦しい沈黙と、引き裂かれるような慟哭に包まれていた。
関羽雲長の死、そして曹操による洛陽での盛大な葬儀。その報せは、漢中王・劉備の理性を粉々に打ち砕いた。
「……呉を打つ。……孫権の首を跳ね、雲長の墓前に供えるのだ」
私は、幾度目かの諫言のために、王の寝所にいた。
「王よ、なりませぬ。……今の我らの真の敵は魏であり、曹操亡き後の曹丕です。呉と戦えば、天下三分の計は崩れ、漁夫の利を魏に与えることになります。……どうか、雲長殿も望まぬ復讐を思い止まってください」
劉備王は、私の言葉を遮るように、静かに、しかし地を這うような声で笑った。
「孔明殿。……君は賢い。……君の言うことは、常に『正しい』。……だが、君は知らないのだ。……あの春の日の、桃の花の香りを」
王は、虚空を見つめるように語り始めた。それは、三十数年前の若き日、涿県の桃園で交わされた、伝説の始まりの物語であった。
「……あの日、私と雲長、そして翼徳の三人は、満開の桃の木の下で、ひとつの器から酒を飲んだ。……家柄も、才も、何もない我らが、ただ『義』という一点だけで結ばれた。……『同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せんことを願う』……。あれは、単なる言葉ではない。……我ら三人の『魂』そのものだったのだ」
王の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「……君は、国を造るために私に仕えてくれた。……だが、私は国のために生きているのではない。……雲長と、翼徳と、この三人の誓いを果たすために、ここまで歩いてきたのだ。……雲長が死んだ今、私の中に残っているのは、半分に千切れた魂だけだ。……これを抱えたまま、どうして冷徹な『正しさ』で国を治められようか」
私は、言葉を失った。
私が影の貿易で蓄えた金も、農民たちに育てさせた麦も、鍛錬所で磨き上げた鋼も。その全ては「国家」を強くするためのものであった。しかし、劉備という男がその根底に抱えていたのは、そんな論理を遥かに超越した「泥臭い情熱」であった。
「……孔明殿。……君は成都に残り、この国を守れ。……阿斗を頼む。……だが、私はゆく。……雲長が独りで逝ったあの黄泉の路へ、私が兵を引き連れて迎えにゆくのだ」
私は、王の足元に跪き、震える声で絞り出した。
「……王よ。……あなたがゆく道が、破滅への道だと分かっていても……。それでも、あなたはゆかれるのですか」
「……ああ。……あの日、桃園で誓った時から、私の命は私一人のものではなくなったのだから」
私は、自分が心血を注いで築き上げた「蜀」という完成された龍が、主君のあまりにも純粋で、あまりにも残酷な「私情」によって、自らを焼き尽くす炎へと飛び込もうとしているのを見守るしかなかった。
成都の風に、幻の桃の花の香りが混じった気がした。
それは、最盛期を迎えた蜀漢の、終わりの始まりを告げる香りであった。
「……月英。……私は、これから訪れる悲劇を、ただ記録するだけの者になるのかもしれない」
西暦220年。
劉備は「桃園の誓い」を胸に、蜀の全軍を率いて東へと向かう決断を下した。
孔明がどれほどの富と鋼を積み上げようとも、一人の男の「義」という嵐が、すべてを薙ぎ倒そうとしていた。




