第百話:軍神の落日、拒絶の連鎖
第百話:軍神の落日、拒絶の連鎖
執筆:町田 由美
西暦219年、冬。
私は、成都の政庁で、震える手で一通の急報を握りしめていた。
「――関羽将軍、樊城にて魏の援軍・徐晃に敗れ、撤退を開始。……さらに東の呉、呂蒙軍が密かに長江を渡り、荊州の拠点を次々と陥落させております!」
血の気が引くのを感じた。私の「天下三分の計」の要、荊州が崩れようとしている。
そして、その報せには、私の魂を打ち砕く「最悪の続報」が添えられていた。
「関羽将軍は、麦城に追い詰められ、上庸の劉封殿、孟達殿に何度も援軍を求めました。しかし……」
「しかし、何だ! 早く言え!」
「……劉封殿は、『上庸は得たばかりで民心が定まらず、兵を出す余裕はない』として、これを拒絶いたしました」
私は椅子に深く崩れ落ちた。
かつて、阿斗殿がいるにもかかわらず劉封殿を養子として重用した将軍。それに対し「家督を乱す種だ」と、公衆の面前で彼を貶めた関羽殿。
あの時、彼らの間に生まれた「血の呪い」が、この絶体絶命の瞬間に爆発したのだ。
「……劉封殿。あなたは、自分を認めなかった雲長殿を見殺しにしたのか。……それとも、雲長殿を助けても、自分に未来はないと絶望したのか」
成都の私邸では、妻・月英が私の異変を感じ、そっと背中に手を置いた。
「孔明様……。影の貿易で得たあの鋼も、豊かな麦も、届かなければ意味をなさないのですね」
「……ああ。月英。……私は法を整え、国を強くした。だが、人の心の中にある『憎悪の連鎖』までは、法で縛ることはできなかった。……雲長殿は、自らの誇りのために死のうとしている。そして、劉封殿は、自らの意地のために、蜀の未来を切り捨てた」
数日後。成都に、地を這うような悲痛な叫びが響き渡った。
「――関羽雲長将軍、呉の臨沮にて捕らえられ、処刑! 荊州、完全に呉の手に落ちました!」
劉備王は、その報せを聞いた瞬間、血を吐いて倒れた。
私は、慟哭する将軍を抱きかかえながら、冷徹な軍師としての自分を呼び戻さねばならなかった。
「……将軍、お気を確かに。……今はまだ、泣いている時ではありません。……荊州を失い、雲長殿を失った今、この国は……いや、天下の形は、根底から崩れ去ったのです」
私は、上庸に留まる劉封へ、怒りと悲しみを込めた召喚状を書いた。
「……劉封。お前が将軍の養子でなければ、私は今すぐその首を刎ねていた。……だが、将軍はまだ、お前の中に『息子』を見ている。……その情けが、どれほど残酷な結果を招くか、お前は分かっているのか」
絶頂の漢中王即位から、わずか数ヶ月。
龍の右腕はもがれ、家族の絆は血で汚れ、空には真っ黒な復讐の雲が立ち込め始めた。
私は、月英に手伝わせ、影の貿易の帳簿をすべて閉じさせた。
これからは、金を稼ぐための商売ではなく、国を、そして友の仇を討つための「狂気の戦」が始まる。
「……士元殿。……私は、間違っていたのでしょうか。……国を豊かにすれば、人は手を取り合えると、そう信じていたのですが」
西暦219年、冬。
軍神・関羽の死。それは、孔明が築き上げた「鋼の兵站」さえも焼き尽くす、復讐の業火の始まりであった。




