第九十九話:漢中王の誕生、龍の完成
第九十九話:漢中王の誕生、龍の完成
執筆:町田 由美
西暦219年、初夏。漢中の空気は、勝利の熱狂に震えていた。
私は、定軍山の麓に築かれた巨大な祭壇の前に立っていた。孔明(私)が隆中を出てから十一年。ついに、「天下三分の計」の足が三本、この蜀の地に深く突き刺さったのである。
曹操はついに漢中を諦め、北へと撤退した。
後に残されたのは、影の貿易で潤った蜀の資金によって再建された城郭と、豊かに実った麦の穂、そして「劉備こそが真の天子を継ぐ者」という民の確信であった。
「軍師……見てください。将軍の、いや、王の御姿を」
隣で声を震わせるのは、馬良(季常)である。
祭壇に登る劉備将軍は、影の交易で手に入れた最高級の金糸を織り込んだ礼服を纏っていた。その背後には、五虎大将軍の面々が並ぶ。
長坂坡から将軍を支え続けた趙雲。
西涼の雪辱を果たし、蜀の盾となった馬超。
そして、定軍山で夏侯淵を討ち取り、自らの武勇を天下に知らしめた黄忠。
「――我、劉備、ここに漢中王を自称す。漢王朝を簒奪せんとする賊・曹操を討ち、天下に再び平穏をもたらすことを誓う!」
その宣言が響き渡った瞬間、数万の兵たちが地鳴りのような咆哮を上げた。
その手には、私が密かに育てた鍛錬所の成果である「鋼の武器」が握られていた。この一振りの重みが、この一粒の麦の輝きが、かつての敗走続きだった流浪の軍勢を、中原の覇者さえも恐れる「国家」へと変えたのだ。
私は、その光景を静かに目に焼き付けていた。
法正が私の肩を叩く。
「軍師。あなたが言った通りになった。……あなたは血を流す計略だけでなく、国の『胃袋』と『懐』を造り替えることで、この奇跡を起こした」
「……法正殿。……これはまだ、始まりに過ぎません。……王が王として立つためには、ここからさらに『法』を厳格にし、民を導かねばならない。……そして、何より懸念されるのは、東の荊州です」
私は、荊州を守る関羽(雲長)殿へ、王の即位を祝うとともに、呉への最大限の警戒を促す書状を送った。
「……雲長殿。あなたはあまりに誇り高い。……だが、今、孫権は我らのこの繁栄を、羨望と嫉妬の入り混じった目で見つめている」
彼は、自らが作り上げた「蜀」という完成された龍の美しさに、一抹の不安を覚えていた。
影の貿易、鋼の軍団、豊かな農産物。これらは蜀を強くしたが、同時に周囲の敵を「本気」にさせてしまったのである。
「……士元殿。……我らはついに、山を登りきりました。……だが、山の頂は、最も風が強く、最も足場が脆い場所でもあるのです」
西暦219年。
劉備は漢中王となり、蜀漢の基盤は完成した。
しかし、その絶頂の瞬間に、東の空からは「軍神の黄昏」を告げる不穏な暗雲が立ち込め始めていた。




