第13話 交渉
…………意外と痛くないな。それに動きも遅い。
――俺は悠長にも、そんな感想を抱きながら。
蹴られた勢いのまま、座っていた椅子ごと後ろに倒れ込んだ。
床で後頭部を強かに打ち付け、椅子から投げ出される。
……これも痛くない。不気味なほどに。
頭の中は冷静に澄み渡っていて、心臓が早鐘を打ってもいない。
いざ荒事になったらなったで、俺の心は不思議なほどに落ち着いていた。
追い打ちを掛けるように踏みつけてきた男の足を跳ね起きて避け、その勢いのまま立ち上がる。
「……痛いじゃないかね」
一度は言ってみたかったセリフだ。
頑張って澄まし顔を繕って吐いたセリフだが、男は意に解することもなく、無言で殴りかかってくる。正面から飛んできた顔狙いの拳を、首を反らして避けた。
次の攻撃は右側から脇腹狙い、そして左側から顔狙い。残像が見えるほどの速さで振るわれる拳だが、その動きは容易く予測でき、余裕を持って避けられる。
高いステータスが仕事をしていることに、感動さえ覚えた。
素のステータスの自分では、こんなことは到底できない。
……もしかしてこれ、殴り返したら相手は死んでしまうのではなかろうか。
自分が安全だと分かった途端、湧き上がるのはそんな不安。
殴り返すこともできず、そのまま数発連続で拳を避けていると、男は後ろに飛んで距離を取った。警戒心もあらわに、ファイティングポーズは崩していない。
「お前……一体何者だ? 黒鉄級の強さじゃねぇだろ?」
やはりステータス200は相当に強いらしい。まさか自分が強者のオーラを放てる日が来るとは。異世界冥利に尽きる。
「知らんよ、そんな事は。もうおしまいかな?」
変な自信が付いたせいで、口調まで変わっている。こういうことをしていると足元を掬われる。気を引き締めねば。
俺の挑発に、男は再度距離を詰め、拳を放ってきた。
今度は左から胴体を狙ってきたので、避けるのではなく弾く。
眼の前の良い位置に相手の顔が来たので、頭突きを一発。
男はたたらを踏んで、後ろに下がった。
「ガハッ……!? テメェの頭は鉄ででも出来てんのかよ!?」
抑えた鼻から、だらだらと血が流れ出す。
「…………クソ、やっぱり話し合いで何とかしようぜってのはアリか?」
手についた血を見つめながら、男は情けない声で呟く。願ってもないことだ。
「いや、構わんが」
「構わないのかよ!?」
「元々こっちに戦う意思はない。要求を呑んでもらいたいだけだ」
「ええいクソ、強者の余裕かよ! なんて性質の悪いヤツなんだ!」
男は天を見上げて、構えを解いた。
「ロゼッタ雑貨店にちょっかいを出すのを、止めてもらえるのか?」
「……俺の一存では決められねぇ。さっきは名が売れているなどと格好を付けたが、俺なんざ下っ端にすぎん」
釈明するかのように手を前に出しながら、男は悔しそうに話す。
「…………」
「いや、黙り込むのはやめてくれよ。俺の上役のジョッシュの元に案内してやる。奴を倒すなり説得するなりして話を付けてくれ」
男は俺に背を向けて衣装棚に向かい、入っていた肌着を小さく引き裂いた。
それを鼻に詰めて、向き直る。
「付いてきてくれ」
俺は大人しく、後に付いて歩く。
* * *
男の家に居た間に夜が迫ってきたようで、空は夕日に朱く染められている。
この男はそれなりに顔が広いらしく、顔に血の跡を残した彼がスラムを歩くと、ぎょっとした様子で顔を向けてくる者が何人もいた。
皆一様に、男に視線を向けた後、まじまじと俺の姿を見つめる。
「……どれくらい遠い?」
「もうすぐだ」
向けられる視線にいたたまれずに尋ねた俺に、男は短く返した。
歩き続けるにつれて、町並みは次第に荒廃したものに変わっていく。
広範な火災の跡がそのまま放置され、焼け跡の壁に残った黒く煤けた色合いが生々しい。
通りの隅にはひび割れた炭のようになった柱や、壊れて用をなさなくなった家具が無造作に積まれ、焼け残った僅かばかりの廃屋には人の居住の気配がある。
「酷いもんだな、このあたりは」
「…………」
俺は思ったままを口にしたが、男は返事をしなかった。
そこから数分ほど歩き、夜の帳が下りようかという頃。
「……付いたぞ、ここだ」
俺達は、比較的綺麗な状態で残っている邸宅に到着した。
見れば、それほど広くはないながらも、四方を庭に囲まれている。あるいは、この庭のお陰で類焼を免れたのかもしれない。
男はそのまま門を開けて家の中に入り、玄関先のノッカーを鳴らした。何かの符号なのか、リズムを付けて短く二回、そして一回の計三回。
少し待っても反応がなく、男はもう一度ノッカーを鳴らそうと扉に近づく。丁度そのタイミングで、扉が少しだけ開かれた。
現れたのは、ランタンを手に持った白髪の男。眉間に皺を浮かべて、来訪者に灯りを突きつける。
「……コリンか。こんな時間にどうした? それに何だその怪我は?」
相手が身内とわかるや、眉間の皺は薄れた。
「ジョッシュさんに客人がいまして。俺は引き止めたんですがどうしてもと」
「ふむ……」
50代ほどに見える白髪の男は、手にしたランタンを今度は俺の方に突きつけ、じろりと睨む。コリンと呼ばれた男の話しぶりからして、どうやらこの男は執事のような役割の男らしい。
「客人というのはお前か。……名前は?」
……流石に、馬鹿正直に本名を名乗るのはやめたほうが良いだろう。
ステータス値200のマッチョマンを、薬草狂いの冒険者と結びつけられるのは困る。
「……翔だ」
「ショウ?」
「ああ」
執事らしい男はしばし無言で俺の顔を眺め、次いでコリンに目をやる。
ここからはコリンの表情は見えないが、彼が顎で部屋の奥を指し示したのは分かった。
「……分かった、しばし待て。御主人様の予定を聞いてくる」
執事はそう言葉を残して、扉をばたりと閉める。
しばし、コリンとの間で無言の時間が流れた。
「……ロレンスがジョッシュの予定を把握してねぇ訳がねぇから、アレはジョッシュがお前に会いたがるかを聞きに行ってるわけだ」
無言に耐えかねたのか、コリンがそう口にする。
「そうか」
さっき言葉を無言で返された俺は、少し意地悪してやろうと短い返事で返す。
……再度、無言の気まずい時間が流れた。
やがて、玄関の扉が開かれ、コリンがロレンスと呼んだ、執事らしき男が顔を出す。
「御主人様がお会いになる。付いてこい」
ロレンスはそう言うと、俺達が入れるように扉を大きく開いた。
* * *
「……で、君がそのショウ君かね」
食事中だったらしく、テーブルの上の食事を脇にどけて話す細身の男。
眼鏡を掛けた神経質そうな容姿で、見るからに高そうな服を着ている。
道を聞いたスラム街の子どもの粗末な服装を思い出し、そのあまりの違いにむかむかと腹が立った。
「そうだ。アンタは誰だ?」
言ってから、俺はしまったと後悔する。憤りが口調に出て、ぞんざいな言葉になってしまった。隣に居たコリンが息を呑むのが見て取れる。
……だが男は気にした風もなく、首ほどまで伸ばした金髪を撫でつけながら返事をよこした。
「私か? 私はジョシュアだ。『灰燼の徒党』の幹部のな」
「ではジョシュア。まずは食事中の訪問をお詫びする。事を急ぐ必要があったのだ。どうかご容赦頂きたい」
俺は今度こそ棘のない口調になるように注意しながら、男に話しかける。
「かまわんとも。コリンが連れてきた客人だ。食事などよりよほど重要だ。……そうなのだろう、コリン?」
「は、はいジョッシュさん。そりゃあもう」
コリンの態度を見るに、眼の前の男はたぶん、怖い男なのだろう。
「で、コリンをより男前にしてくれた君は、私に一体何の用なんだね?」
コリンの顔に血の跡を認めた男は、皮肉を込めた口調で尋ねる。
「街の中央の方で、アンタら『灰燼の徒党』はみかじめ料を要求してるだろう?」
「ああ。中央のみならず、街中でやっている。それで?」
「目こぼししてやってほしい店がある」
男は、片眉を持ち上げる。
「……断る、と言ったら?」
「……笑ってくれて構わんが、貴様らを全員叩きのめすことになるだろうな」
コリンが「俺は関係ないだろ?」とでも言いたそうな視線を俺に向けてくる。
男――ジョシュアは、声を上げて笑った。