デレゾーンに入り始めたぞ!
「うーん、サチさん…はっ」
芹花は自分のベッドの上で目を覚ました。マスクも防護服もすべて脱がされている。
「大丈夫ですか」
上からサチが覗き込んだ。めずらしい光景に、芹花は横になったまま目をパチクリさせた。
「あれ、私どうしたんだっけ…」
「取り付けして、倒れたんです。たぶん軽い熱中症でしょう」
起き上がって部屋の鏡を見て芹花は気がついた。おでこに冷却シートが張ってある。
「これは…?」
サチはさっと目をそらした。それを見た芹花は屈託なく笑った。
「あはは、ありがとうございます…。ずっとそばにいてくれたんですか?」
サチはそっぽを向いたまま答えた。
「別に…!あなたがサチさんサチさんって言うから、しょうがなく…」
「え、そんな呼んでました?…あっ」
芹花はサチに詰め寄った。
「さっき私のこと、名前で読んでくれましたよねっ?」
「は…はい?」
「だから、私のこと、「芹花」って…!」
サチは思い切り嫌な顔をした。
「そうですよ、言いましたけど、何か?」
芹花はヘヘと頭をかいた。
「そんな怖い顔しないでくださいよ!うれしいんですよ。だってずっと名前で呼んでくれなかったじゃないですか。覚えられてないのかなーって」
サチはムッとした顔になった。
「覚えてるに決まってるじゃないですか。あなたの調書にはきちんと目を通しましたから」
「へぇ、私の調書…何が書いてあったんですか?」
その興味しんしんの様子に、サチは肩をすくめて言った。
「中村芹花、17歳。7月8日生まれのO型。身長156センチ、体重…」
「わーっいいですいいです、それ以上!」
芹花はあわててそれをさえぎった。体重まで記憶されているとは…。
「あの…私を運ぶの、重…重くなかったですか?」
「別に。ですがもう無理はしないでください。また倒れられたら困るんで」
「それはお互い様ですよぉ…でも、ありがとうございます」
しゃべっているうちにすっかり元の元気を取り戻した芹花は、再び防護服を着込んだ。
「じゃ、畑仕事してきますねー!」
とめる間もなく出て行った芹花を見て、サチはため息をついた。
(大丈夫なのか…?全く、人にはうるさく言うくせして)
しかし、それは当然なのかもしれない。彼女は自分と違い「本当に体が強」い。
サチは軽く自分の額をおさえた。今日もあまり体調が良くない。
(あの「解熱剤」とやらを飲もう)
以前なら熱が出るに任せていたが、今は芹花がいる。高熱がばれたらまた騒がれるに違いない。気持ちと同じように苦い錠剤を、サチは飲み下した。
『松田さん!おはようございます!今、サンクチュアリは朝の5:30です!まだ日の出前ですが、チャモロコシの様子をレポートしますッ!』
端末から流れる動画を見て、仕事場にもかかわらず松田は思わず笑ってしまった。あれから芹花はこうして毎日、チャモロコシの様子を撮ってきてくれている。動画を見る限り、チャモロコシはすくすくと成長しているようだった。
「何見てるの?松田くん」
「あ……おはようございます、主任。ちょっと仕事のメールを」
突然肩を掴んで端末を覗き込まれたので、松田は端末をしまった。彼は、このフロアの研究を束ねる主任だった。
「ふうん。そういえば松田くん、最近、酒流副専務と出張したって?」
さすが、耳が早い。この事はあまり口外するなと酒流に言われてはいたが、上司からきかれては嘘をつくわけにもいかない。松田は素直にうなずいた。
「出張っていうか、雑用係として、お供させてもらっただけですよ。というか酒流さん、副専務になったんですか?」
屈託なく笑って告げると、主任は眉を寄せた。皺の多いその顔が、疑い深い表情になってさらに皺が深くなる。ぞっとするほど、険しい表情だ。
「松田君はさ……まだ研究所、短くてよく知らないのかもしれないけど」
松田の肩をつかんだまま、険しい表情の口元だけが、薄気味悪く笑みの形になる。
「悪い事は言わないから、あの人には関わらない方がいい。過去――研究室から死人も出てるんだから。次はお前かもしれないぞ」
言葉とは裏腹に、その口調は本心から心配しているものではない。隙あらば、相手の足を引っ張って引きずり落そうという本心が透けて見える。松田は思わず主任の手を振り払いそうになったが――持前の胆力で、ぐっとこらえて笑った。
「大丈夫です。そんな大それた関わりはないんで!心配してもらってすみません」
それを見て、主任はつまらなそうな顔になったあと、背を向けて去っていった。
(はぁ……つくづく苦手だな、こういう腹の探り合いみたいな事は)
酒流と関わるようになってから、どこから聞きつけたのか、こうして横やりを入れてくる先輩が増えた。松田はため息をつきながら研究室内のプラントへ移動し、いつもの植物の観察を始めた。このだだっ広い白い体育館のようなプラントで、1万種類もの植物が育てられている。常にミストと植物用ライトを浴びて、植物たちは健康に生き生きとしている。自分が担当する植物たちが正常に育って上手くいっている事を確認して、松田はほっとすると共に嬉しい気持ちになった。
(よかった、俺の提案した方法で、上手く育ってるな)
心の底からの笑顔が、松田の顔に浮かぶ。松田が地方から上京し、とんでもない倍率に勝ち残って研究員としてGNGに入社したのは、ひとえにこうして、植物を心ゆくまで育ててみたかったからだった。
(俺がやりたい事は――かつてあった植物たちを、よみがえらせること。いつか映像で見たような、当たり前にそのへんに植物が育つ環境に戻す事……)
植物が当たり前に外で育つ。それはつまり、人間もそのようにして暮らせると言う事だ。日本で一番狭く余裕のないドームで育った松田にとって、外を自由に翔ける事は少年時代からの見果てぬ夢だった。そのために、必死で試験にくらいついたのだ。決して、社員間でもめるためでも、陰謀にまきこまれるためでもない。ポケットの中に入れた端末の重みを感じるたびに、芹花の屈託ない笑顔を思い出して松田の胸は痛んだ。
(ああ……俺はなんてことに、関わってしまったんだろう)
研究所。夢見ていたその場所は、平和に研究に没頭できる象牙の塔などではなかった。むしろ様々な思惑が渦巻く伏魔殿というにふさわしい場所だった。
GNGは、この分野ではぶっちぎりにトップを走る会社だ。だからその分、外から狙われる事も多い。昨日の共同研究者が、明日には金に目がくらみ、その研究を外部に売り飛ばして逃げてしまう事も少なくはない。そして、内部で研究費を獲得するための争いも熾烈だ。次はどんな研究を行うのか、誰と組むのか、皆が皆、腹の内を探り合っている。
最初、酒流が『チャモロコシを作り直してはくれないか』と松田に声をかけてきてくれた時は嬉しかった。偉い人に、自分の実力が認められたと思ったからだ。しかし、彼からのオファーは、美味いだけの話ではなかった
(チャモロコシは、たしかに魅力的な作物だ。俺の組みなおした方法で、成功させたいとは思う……でも)
だからといって、酒流の熾烈な計画は、純朴な松田には到底受け入れられるものではなかった。
しかしそれでも、松田はうなずいてしまったのだ。酒流の『君の研究で、たくさんの人を助けられるんだ』という言葉に流されて。
植物に優しく降り注ぐミストを浴びながら、松田は再び深いため息をついた。緑が息づくこのプラントだけが、研究所で松田が好きだと思える場所だった。
しかし、ここにずっと居られるわけでもない。今日は10時からミーティングだ。ピリピリした面々と向き合って、また腹の探り合いだ。何でもいい、何かすっぽかす口実でもあればいいのに。松田はそう思いながら指紋認証で扉を開けて、プラントから研究棟へと向かった。いったん外に出たその時、松田の耳になにやら争う声が届いた。
「酒流さんに会いたいんです、お願いします」
「だから、アポないとダメだって。そもそも君は誰だ」
「俺は中村大樹です。中村芹花の兄です」




