第2区間後半
宏太くんは自分の感情を剥き出すことが少ない子でした。ですが、決して感情がない訳ではありません。表現しないだけで、しっかりと持っているのです。ある日、初めて宏太くんは巽くんの家に呼ばれました。いえ、屋敷というのが正しいですね。あのような歴史があり、なおかつ大きく、そして立派な建物はそうはありません。如何に長きに渡って岸野家が大きな「家」であったのかが分かります。それを見た宏太くんは衝撃を受けました。お屋敷なんてもの、滅多にお目にかかれませんからね。当然です。あれを初めて見れば……住む世界が違うと思いますよ……。
テレビゲームが置かれている部屋に宏太くんは連れて行かれました。そこには一年前に発売されたゲーム機が置かれ、ソフトが何本も重ねられていました。宏太くんは我儘を言うことも少なかったので……まあ、ご両親が冷たかったから子供心にそのようなことを言いづらかったのでしょう。ゲーム機を買って貰いたいという気持ちすら抑えていました。しかしその部屋を一眼見た瞬間に今まで抑えていた物欲が皮を破って飛び散りました。
その様子を素直に楽しんでいると受け止めた巽くんは一緒にゲームで遊びました。その中で宏太くんに「アキラはここらへん、結構上手にクリアしていくんだよな」とか「シンジはこのステージで突っかかってるらしいぜ」とか、そういう話をしました。巽くんにとってはなんてことのない、ゲーム中の会話です。これが宏太くんの心を深く抉っていたようです。
一日中遊んだ宏太くんは別れを告げて帰り道を歩いていました。しかし、いろいろ思うことがあったのか、家に中に入って行くことができず、近くの山を登りました。その山の中腹には東屋があり、そこで座って地面を眺めたのです。この日、ちょうど倒れた大木の様子を見に山を登っていた駐在の五十嵐が、帰り道の下り坂を自転車を押しながら歩いていました。東屋の前を通り掛かった時です。
「ああ、今日も疲れたな」
と首を横に振ると視界に宏太くんがいるじゃないですか。時刻は十七時で、星空も出ていないし周りに誰もいない。しかも顔を下に向けて、間違えなく何かあるに違いありません。そのまま歩み寄って声を掛けます。
「宏太くんじゃないか。一人なのかい」
宏太くんは黙ったまま頷きました。視線は相変わらず下向きで五十嵐さんの方は見ません。
「あまり遅くなるとお母さんもお父さんも心配するよ」
そう言って自転車を立てて、宏太くんの隣に座りました。
「なんか嬉しくないことがあったようだね。力になれるか分からないけど、話聞いてあげるよ」
そう言っても相変わらず宏太くんは黙ったままです。しかし、市民の心配事を聞いたり、悩み事の解決の手助けをするのも警察官の仕事です。この手のことには慣れています。それに宏太くんとは仲が良かったですから、話してもらえる自信はありました。
「宏太くん、もうこの町にきて長くなるね。最初の頃はこの町に入り込むの精一杯で気付かなかったけど、だんだん慣れてくるといろんなことが見えてくるんだよね。そうすると不安になることが増えたりさ。おじさんもそうだったよ。でも近くに先輩のお巡りさんがいたからね。いっぱい相談させてもらって解決したんだ。人に話すと案外解決できるかもしれないよ。もしお母さんやお父さんに話しづらいことなら、おじさんが聞いてあげるよ。大丈夫、誰にも言わないって約束するよ」
そう優しく言うと、宏太くんはゆっくりと声を出し始めました。
「本当に、五十嵐さんの言う通りだよ。いろいろ……気付いてきて」
大きく溜息を吐きました。
「もしかしだけど、巽くんと喧嘩したのかい」
「いや、そうじゃない」
宏太くんは強く首を振りました。
「今日も一緒に遊んだ。本当に……楽しかった」
喉の奥から絞り出したような潰れた声です。
「本当に……巽くんは優しくて。勉強も二人でやれば集中できて楽しかったし、お母さんも巽くんとならいいよって言ってくれるし……でも……」
宏太くんは自分の気持ちを表に出さないタイプでしたから、人前で泣くこともほとんどありませんでした。この時も大声では泣かず、必死に涙を堪えてました。それでも溢れ出る涙は大粒になって足元に落ち、大きな水玉になっていました。あの日のあの時、彼はきっと悟ったものがあったのでしょう。決して超えることができない親友との壁に。
実際はそんなことないんですよ。友情って本当に強いものですから。環境の差なんて驚くほど簡単に乗り越えられるし、多少の揉め事で崩れることはありません。でも、それを思春期の子に理解しろと言っても無理な話でしょう。多感な時期です。普通じゃ見逃すようなことに気付き、自分の知らないうちに過大に評価し、誤った決断を下す。それが当たり前なんです。
あの日、彼に本音を伝えられなかった私は本当に警察官失格……いいえ人間失格でした。
もうお気付きでしょう。駐在の五十嵐です。私はことあるごとにあの日のことを思い出しました。初めに思い出したのはその日の夜です。本当に、本当に、やってしまったと後悔の念でいっぱいいっぱいでした。
私は宏太くんの隣でしばし考え込んでこう言いました。
「そうか。きっと何か大きなものを感じたんだね。それは辛かったね。でもきっと、巽くんは宏太くんと仲良くしたいと思ってるよ」
宏太くんはさらに首を深く曲げました。
「そんなことないと思う。巽くんは優しいから僕に声をかけてくれた。分かってたよ、自分でも友達がいないこと。クラスは自然と二つのグループに分けられてて、僕は農家の子達じゃない方。最初の頃は結構仲良かったけど、勉強できたのが自分しかいなかったから、だんだん話も合わなくなってきて。そうして一人でいたら気にした巽くんが話しかけてきてくれたんだ。やっぱり頭がいいやつ同士で話が合う、って思ってた。でも、違うんだ。巽くんは友達が沢山いて、みんなに好かれてた」
そう言って黙り込みました。宏太くんは自分がグループの中で、もっと言えばクラスの中で特別な存在であると思っていました。しかし、特別な存在とは巽くんのことであり、彼を基準にすれば、宏太くん自身はなんてことない、ただの巽くんと仲良くしたい一人に過ぎなかった。そう考えてしまったのです。本当なら私はこのタイミングで
「巽くんはそんな八方美人な子じゃない。おじさんは長いこと巽くんを見てるけど、君と遊んでる時が一番楽しそうだったよ」
とでも言えば良かったんです。これは嘘ではありません。誇張でもありません。それまでの巽くんの友達はみんな農家の子でした。言うならば、親が作った友達です。もちろん、そんないやらしいことを巽くんのご両親がやっていた訳ではありません。自然とそうなっただけです。実際、巽くんは農家繋がりの子たちとも普通に仲良く遊んでいましたし、岸野家の人だからと言う理由で威張ることも、持て囃されることもありませんでした。彼に向けられた羨望は、生まれ持った社交性と頭の良さに対して、純粋に向けられたものだったと思います。とはいえ、原因と結果だけを見れば、そう捉えられます。そんな中、宏太くんは私が知る限りで唯一、巽くんが自分の力だけで作った親友と呼べる存在でした。彼が宏太くんを選んだ理由は……きっと一つではないでしょう。宏太くんの頭が良かったこともそうですし、騒ぎ立てないところ、努力が垣間見えるところ、彼のいいところをあげればキリがありませんからね。それらが重ね合わさったんだと思います。
それなのに……。はぁ。どうしてでしょうね。私は宏太くんが言っていたことに妙に納得してしまったんですよ。巽くんが持っていたある種のカリスマ性は、大人の私からしても大したものでした。
あれは祭りの時でしたかね。飲みの席で農家の人たちが集まって親は親同士、子は子同士で集まってバーベキューをして楽しんでいました。警備をしていた私は、町の外の人間がみんな帰ったので引き上げているところで遭遇し、一緒にお酒を頂戴していました。そこでの巽くんの動きは本当に小学生かと驚きましたよ。みんなで楽しく喋っている中、しばらく誰とも話していない子を見つけると席から立ち上がってその子のところへ行って話題を振るんですよ。こう言っては語弊があるかもしれませんがね、まるでスナックのママですよ。いや、仮にも男の子に対して「ママ」はリスペクトに欠けますね。カジュアルなバーの店主ぐらいにしておきましょうか。なんにせよ、そのスムーズな身のこなしと言ったら……。そんな風に思っていたら、大人の席では巽くんのおじいさんの龍二さんが同じことをしていましたからね。笑ってしまいましたよ。気配り上手な家族の背中を見て育ったか、あるいは未来の長にするための帝王学の一環として教育されたか、あるいは遺伝子なのか。その答えは分かりませんが、岸野家の偉大さに感服したものです。
少し言い訳に時間を使いすぎてしまいました。私はその時に、
「巽くんは優しいもんな……」
とそれだけを言ってしまいました。これでは「宏太くんが巽くんの取り巻きの一人にしか過ぎない」と取られても仕方のない発言です。そのようなところに目を向けることもできずに、何が相談されるのが得意な警察官、でしょうね。この後、私は宏太くんの顔を見ることができませんでした。すぐに自分が言ってしまったことの意味を考えてしまいましたからね。慌てた言い訳なんて余計に彼を傷つけるだけだと思いましたし、結局のところ下を向くだけです。それでも第三者の人間からそのような判決を下された彼が一体どのような考えになったのであろうか、どのような表情になっていたのであろうか……それを想像するだけで、今でも胸が苦しめられる思いです。
その後、しばらくそこに二人で黙り込んだまま座っていました。そしてスーッと冷たい風が当たって我に帰った私はふと時計を見ました。どうやら二十分近く座り込んでいたようです。慌てて
「もう夜遅いから、帰ろうか。送ってあげるよ」
と言って宏太くんと一緒に彼の家まで歩いて行きました。その道のりの長いこと……。すぐ裏にあるはずの家まで数時間歩いたんじゃないかと思うほどの重苦しい道でした。
その日の夜、私は自分のしでかしたことを深く反省し、謝罪の代わりに何かを宏太くんにしてあげようと考えました。
翌日の昼下がり、学校を終えた宏太くんを待ち伏せていました。案の定一人きりで歩いている宏太くんに後ろから近づいて声を掛けました。
「おおい、宏太くん」
宏太くんは振り返ってそっと会釈をしました。
「昨日はお父さんに怒られなかったかい」
そう聞くと
「別に……」
と小さく答えました。
「そうか、よかった。そうだ、いいもの見せてあげるからさ。ちょっとついておいでよ」
と私は宏太くんを連れて行きました。おっと、冷静に言動を振り返るとまるで不審者の定型句ですね。ですがまあ……警察官ですから。私が連れて行ったのは家の裏にある倉庫でした。駐在所の住居部分は上司が使っていたため、私は少し離れた小さな家をお借りして住んでいました。そこの大家さんがとても優しい人でしてね。裏にあった倉庫まで好きに使って良いと言ってくれました。そこで私は当時趣味だった筋トレの道具を買って置いていました。まあ、見ての通り細身なもので。あまりパワーを鍛えるトレーニングは向いておりませんでした。いくら鍛えても筋肉痛になるばかりで大きくなりませんでした。当時は情報も集めずに自己流で鍛えていましたからね。鍛え方が悪かったのかもしれません。ですが持久力を鍛えるのは好きでした。特に自転車型のトレーニングマシンは私のお気に入りでした。毎回漕いだ時間と使ったカロリー、動かした重量などが表示されて、それが毎週少しずつでも増えていくのが楽しかったんです。そんなこともあって、簡単な鉄アレイ以外は主に持久力を鍛えるマシンを中心に買い集めました。とは言っても下っ端巡査の給料ですから、ボーナスが出た時に買うだけですがね。
そのマシンを宏太くんに使わせてみようかと思いました。宏太くん、あまり運動をする方ではなかったので体つきは華奢でしたが、身長は巽くんと同じでクラスでも結構高いほうでしたから、いくつかは使えると思いました。特にランニングマシンは走るだけですから使い方も簡単で、すぐに使い慣れました。どうやら感性が私に似ていましたようで、出て来るカロリーや走った距離に喜んでました。かなりの長さを走っていましたよ。まあ、毎日のように長い通学路を歩いて帰っていたのですから、体力はついていて然りですね。運動はストレス解消にはいいですから、これは勧めて正解だったと内心でガッツポーズをしました。倉庫に置いてあった冷蔵庫から冷やしておいたスポーツドリンクを渡して言いました。
「ここ、おじさんが趣味で作ったんだけどさ。一人で使うには勿体無いし、好きな時に来てくれていいからね。冷蔵庫の中も勝手に飲んでいいから」
宏太くんは笑って頷いてくれました。
「ああ、とはいえ、みんな来て怪我したりしたら大変だし、なるべく内緒にしておいてね」
と言うと
「うん。分かった」
と応えました。
それからというもの、学校を終えた宏太くんは毎日のようにうちの倉庫に来ていました。直接見る機会はそれほど多くありませんでしたが、マシンに残っていた記録の履歴や、冷蔵庫から減っているペットボトルの数を見れば分かりました。時々会う時も必ず一人だったし、履歴も大きく減ったり増えたりしてませんでしたからきっと本当に友達の一人も誘わずにうちで遊んでいたのだと思います。ただ、記録は少しずつ、少しずつ、着実に伸びていました。学校での様子について誰かから聞いたことはありませんでしたが、きっと学校でもトップクラスで体力があるのではないか、と私は思っていました。そのように嬉しく思う反面……友人との時間をもしや奪ってしまってはいまいかと思うこともありました。
それから時は一年と少しが過ぎ、宏太くんと巽くんが中学生になった時のことです。小学校のクラスメイトは引っ越しをしない限り、基本的には同じ中学校に通うことになります。二人も同じ中学校に進んだ訳ですが、例の一件以来、どうやらずっと一緒に遊んだり、という関係ではなかったようです。夏の暑い日も大雪の降る冬の日にも、相変わらず学校の後は私の倉庫へやってきてトレーニングをして帰る。もはや生活の一部として彼の中に溶け込んでいるように私は感じました。そんな春の日のことです。その日は非番で……まあ、田舎の駐在ですから非番と入っても普段から仕事も少なく、変わっているところと言えば制服か私服かと言うだけですけれども。私は久しぶりにI市まで足を運び、少しだけ豪華なランチとショッピングを楽しんで帰りました。私が駅から自分の家に向かう時、その日は平日でしたからちょうど授業を終えた中学生たちが帰っているところでした。そんな微笑ましい様子を見ながら歩いていると、普段はあまり人が来ない私の帰路に人影が見えました。最初はいつものようにトレーニングに来た宏太くんかと思いましたが、宏太くんよりも背が高く、体格も微妙に違うように感じました。そして電柱や建物に時々身を隠すようにして誰かを追いかけているようでした。
不審者の可能性もありますから、私は少し足早に近づいて行きました。そしてすぐに顔がはっきりと見えました。誰かに見つからないようにしていましたから、声のトーンを抑えて後ろから声を掛けました。
「巽くん、どうしたんだい」
巽くんは「ワァ!」と大きな声をあげて腰を抜かしました。どうやら前方だけに注意を向けていたようで、後ろから追って来る私には一切気づいていなかったようです。
「なんだ、五十嵐さんか」
そう言われましたから
「ごめんね、驚かせちゃって。不審者かもしれないと思って近づいたんだよ」
と言って倒れた巽くんに手を差し出しました。巽くんが掴んで立ち上がるとお尻に付いた土を払って応えました。
「なんか最近さ……宏太のやつ、学校でも一人だから心配なんだよね。前までは……俺とあまり遊ばなくなってからしばらくは別のグループの友達と遊んでたから、まあ、なんか嫌われちゃったかな、ぐらいにしか思ってなかったんだけど」
そう言って私の家の方向に顔を向けました。
「だんだんそいつらとも遊ばなくなって、中学に入ってからは学校が終わったら誰にも話しかけずにいなくなっちゃうし、悪いことでもしてるんじゃないかって心配で後をつけたんだ。まあ、もしこんな田舎で悪いことなんてしたら一瞬でバレるから、別に大丈夫とは思ってたんだけどさ。五十嵐さんのせいで見失っちゃったよ」
そう言って目を細められました。
「そうだったんだね。大丈夫、悪いことはしてないさ。おじさん、どこにいるか知ってるんだ」
という言葉に巽くんは目を広げました。
「なんで?」
私は即座に返答することができず、
「ちょっと考えさせてくれ」
と言って少しの間だけ俯きながら考え込みました。私にはいくつかの選択肢があります。まず一つ目は正直に居場所を話すことです。そうなると巽くんはどういう行動に出るでしょうか。一つは彼の素行に安心して帰宅することです。そしてもう一つは気になって私に同行して倉庫へ向かうことです。まあ、おそらくほとんどの確率で後者の成り行きになるでしょう。巽くんは心配と言っていましたが……まあ半分は事実であるとして、もう半分は興味でしょう。では、巽くんがついてきて倉庫で宏太くんと出会ったらどうなるか。これには宏太くんと巽くんの違いの胸の内を明らかにしない限りは、私の想像力だけで結論を推測するのは難しかったです。最高の状況というのは巽くんと宏太くんが仲直り……というよりも、かつての友情を取り戻し、また一緒に遊んでくれることです。巽くんのコミュニケーション力と思いやりの気持ちをもってすれば、きっとそうなると最初は思いました。では、最悪の結末とはなんでしょう。それは宏太くんの居場所がなくなることです。万人に優しく接してくれる人と時間を一緒にするということは、そのようなことができない人からすれば時に重圧、超えて苦痛になることがあります。時に、狭い視野しか持ち得なかった人たちが群れていることがあると思います。もちろん、同じ趣味を持っているもの同士で仲良くしていることも沢山ありますが、中には互いの干渉の少ない状態を好んでいることもあるのです。万人に優しい人は自分には優しくしてくれる、しかし自分は好きではない相手に優しく接することができない。その対比が首を締め付けてゆくのです。
先ほども言いました通り、この想定は「最悪の結末」です。断じて、最も起こると推測される結末ではありません。巽くんが自分のクラスメイトに優しく接してくれることはおそらく間違い無いでしょう。でも宏太くんがそのような狭い視野であるとは限りません。コミュニケーションが苦手であろうことは昔から気づいてはいましたが、だからと言って人と話せないほど極度の緊張を持ってしまうタイプでもありませんから。しかし万が一にも、宏太くんがここに来れなくなったら……それこそ本当に巽くんが心配していた事態になるかもしれません。
そうなるともう一つの選択肢、それは巽くんにそうこのことを秘密にし、自分が見ることのできる場所にいるから、と安心させて帰すことです。しかしそれは……第三者たる私による完全な仲違いになり兼ねません。
そこで思い出したのです。そうだ、あの時に私は何を反省したのだろうか。自分の軽々な判断によってはかけがえのない絆を突き放す手助けをしてしまう結果になるかもしれない。
私は思い切って巽くんに伝えることにしました。私は……巽くんの決断に身を委ねることにしたのです。
「宏太くんの居場所、教えるよ。来るならついておいで」
そう言って歩きながら話しかけました。
「昔はよく遊んでいたのに、最近は一緒にいるところ見ないね。あまり仲良くないのかい」
そういうと巽くんは笑って返しました。
「何言ってんの。五十嵐さん、宏太と仲良くしてたんでしょ。知ってるのになんで聞くのさ」
さすが鋭いです。
「なんだ、知ってたのか」
感心する私に言います。
「いや、知らないよ。ただ、さっき宏太は大丈夫だって自信ありげだったからずっと一緒だったのかなって思ったんだ」
そう言って巽くんは一つ溜息を吐いてから頭を掻きました。
「今でも覚えているよ。宏太を家に招いた時だろ。俺、仲のいい友達を家に呼ぶのは別によくあったことだからさ。宏太を招いたのだって、別に俺にとっては普通のことだったんだ。むしろ、そういうのってほら、さらに仲良くなるための一歩じゃん。大きい声で言ったら他の友達を馬鹿にしてると勘違いされちゃうかもしれないから小さい声で言うけど……。宏太は頭も良かったからそういう系の友達ができて嬉しかったんだよな。でも、あれからなんか宏太は俺のこと避けているみたいで。目が合った時に声をかけようと思ったら、視線で拒絶されたこともあるし。なんか、がっつきすぎたら余計に嫌われるかもしれないからそれ以上は踏み込まなかったんだよな。ただ、なんか俺に限らず誰とも遊んでる感じとかしなくって。まあ一年以上前のことだと思うけど、チラッと五十嵐さんと二人で歩いてるのを見かけたし、友達が少なさそうなだけで毎日学校にも来てていじめられてる感じとかもなかったから別に大丈夫かなとか思ったりして……」
そんな風に宏太くんのことをしばらく喋っていました。余程気になっていたんでしょうね。中学校に上がった、という節目もあったかもしれません。
そんなこんなで倉庫に到着しました。
「きっと今日も中でトレーニングしてるよ」
ガラガラと扉を引くと、中では自転車のマシンに乗って汗を流しながら漕いでいる宏太くんがいました。宏太くんはこちらを見ずに
「うっす、今日も来てます」
と声をかけました。
「体育での記録がいいと思ったらこういうことだったのかよ」
という巽くんの声に反応して、宏太くんは漕いでいる足を止めてこちらを向きました。表情からは「どうしてここに」という言葉が伝わってきましたが、特別曇ってもいませんでした。驚きの方が勝っていたようですね。
「途中の道でバッタリ巽くんに会ってね。そこで話して、まあ流れで連れてきたんだ」
巽くんは言葉を聞かずに中へ入って私が揃えたマシンを触り「すげぇ、ホンモノじゃん」と感心していました。
「流れって……どんな流れですか」
それに応えたのは巽くんでした。
「ちょっとお前のことが心配だったんだよ。中学になっても話しかけてきてくれねぇし、誰とも仲良くしてないみたいだったから」
それに「余計なお世話だよ」と呆れ声を出していました。私はその様子に安心しました。宏太くんの反応が友人に対するそれだったからです。極端に拒否反応を出されたらなんとか言って巽くんを連れてその場を離れようと思いましたが、どうやら大丈夫そうなのでそのままにしました。
私は二人に
「じゃあ、部屋の片付けをしたいから何かあったら裏にある家に呼びにおいで」
と伝えて、その場は若いものに任せました。どうやらその後二人はずっとトレーニングをしていたようです。部屋の片付けを終えた私はちょうどその日に行っていたI駅近くで自分のご褒美用に買ったケーキが二つありましたから、二人にあげようとそれを持って倉庫へ行きました。二人にケーキと、さすがにスポーツドリンクは合わないので部屋からお茶を振る舞うと、喜んで食べてくれました。その時、話の流れで巽くんが
「今度、宏太の家に遊びに行かせてくれよ」
と言いました。私はその言葉を聞いた瞬間に、巽くんの家の豪華さを思い浮かべ、まずい、と思いました。宏太くんの返事は
「それは……ダメ……」
という言葉でした。しかし私の思っていたような理由ではなさそうなほど、それ以上の何か拒絶を見せていました。気まずいとか、恥ずかしいとか、そう言うのではない拒絶……いや、恐怖に近い形相だったような気もしてきました。巽くんも瞬時にそれを察したようで、
「そ、そうか」
とすぐに引っ込みました。そして次にくる感情は心配です。やはり巽くんも同じでした。巽くんは
「……何かあったのか」
と低い声で聞きました。
宏太くんが口を噤み、重苦しい沈黙が。そして、
「まあ、機会があればな」
と遠回しな拒絶をして立ち上がり、「じゃあ」と一言だけ残して帰ってしまいました。二人になった私たちはもう、それは気まずかったですよね。まあ、いくら相手が気配り上手な巽くんだからと言っても、私の方が遥かに大人ですから、先に声を出しました。
「なんか……あるかもね」
巽くんは顔を前に向けたまま、
「まずいこと聞いちゃったかな……」
と。私はすぐに
「いやいや、そんなことない。むしろ、重大なことに気づけたのかもしれない」
と返しました。
「あれは確かに、何か言えない、あるいは言いたくないことがあったんだ」
そんな当たり前のことしか言葉が思いつきませんでしたが。ですがこれはほとんど間違いのないことです。幸い、私は警察官という、状況によっては人のプライバシーに踏み込むことが国家から許された存在です。
「近いうち、ちょっと探ってみるよ」
と伝えました。心配そうな、そして不安そうな巽くんを家に帰し、私は翌日の勤務に備えて眠りにつきました。
本当は翌日にでも調査に踏み込みたかったのですが、そう易々とは行きません。まず、本業である地域パトロールには私にはありますので、それを放って別の作業はできません。そしてもう一つは地域で私の存在はよく知られているという問題があります。もしも私が彼らの家に堂々と訪ねていったり町民に話を聞けば、それを目にした町民たちが何か噂をするかもしれません。とはいえ町の密着性は悪いことばかりではありません。近所の人なら、何か佐藤家の秘密を握っているのかもしれないのです。それなりの確率でね。そこで私はちょっとだけ作戦を練って、聞き込みをすることにしました。すると、宏太くんの言動の理由がうっすらと見えてきました。