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お隣 空いていますか  作者: 夜夢野ベル
6/12

第2区間 前半

 そんなムッとした顔をしないでください。悪口を言うつもりはありませんよ。J町は悪い田舎ではありません。この都会時代にありながらも、J町の子供の数は少なくないですからね。小学校だって運営できていますし。豊かな気候で農業はとてもしやすく、農業目的の移住者も少なくなかったですからね。

 J町は全国の地方に先駆けて、人口減少問題に真っ先に取り組むことを決め、その根回しも上手でした。その立役者の一人がJ町の農協のまとめ役であった岸野龍二という男性です。

 岸野さんの家は代々この地で農業を営んでいた大きな家で、信頼も実績も持っている一族です。少しこの龍二さんの生い立ちをお話ししましょう。龍二さんのそのまた父親には一つ野望がありました。それが長男を大学に入れることです。当時、農家の家の人が大学に行くと言うのはなかなか珍しいことでした。そもそも今のように高校生の半分が大学に進む、と言うのはつい最近のことですしね。農家はこのような言い方をしたら語弊があるかもしれませんが、土地と技術、それに農業にまつわる知識が十分にあれば学歴に関係なく一流の農家になることができます。そこに大卒か否かは必要条件ではないのです。しかし、龍二さんの父親がそこにこだわったのにはJ町にやってきた農協職員が関係します。その職員は農学部を卒業し、先端技術としての農業を収めていました。研究環境として自然が豊かなJ町を選び、より効率の良い品種改良や新たな機器など、今までの農家にはなかった視点からのアプローチをしました。J町民は最初の頃、この職員が率いて作った研究施設……といってもほとんど畑とビニールハウス、それに住所を兼ねる小さな建物でしたが、それを毛嫌いしていました。優しかった龍二さんの父親は町の人に無視されるその職員が可哀想になり、何度か晩酌に誘ううちに仲良くなりました。そこでの研究への協力を惜しまなかった結果、二年後には岸野家で育てた野菜が病気に強く、品質が良いと評判になり、さらに大きな影響力を持つようになりました。もし岸野家が小さな農家であれば他の町民からの嫉妬で崩れていったかもしれませんが、そもそも研究云々の前からJ町では一、二を争う豪農です。町民は純粋な羨望をもち、我先にと研究者に協力。結果的にJ町全体で大々的な農業発展することに成功しました。この時に龍二さんの父親は大学で学ぶ学問としての農業の可能性を感じ、これからもこの町の農家を引っ張っていくのは岸野家であるという強い自負のもとで、自分の子供を大学に進めようと心に決めたそうです。そうして生まれた長男を大学に行かせるために勉強させました。もうすでに親友となっていたその職員の部下に家庭教師をやらせていたらしいです。周りの友達は学校のあとは毎日遊んでいるのに、龍二さんは最低でも週三回は勉強。だいぶうんざりしていました。そんな努力の甲斐あって、龍二さんは東京にある大学へ進学し、農業を学んで再びJ町へと戻ってきました。そんな経緯がありましたから、龍二さんは大卒でした。確かに当時、J町以外でも人口減少に対して手を打とうとした地方は少なくありませんでした。しかし多くの場所が新しく入ってきた学歴のある人に対して偏見を持っており、また企業や研究所が行う農業改革に対して懐疑的でした。それゆえの……今の言葉でいうイジメですかね。そういうものも横行していたとのことです。しかし、このJ町を仕切るようになっていた龍二さんは幼い頃から、研究に来る人は凄い人なんだ、と父親から教えられて育ってきました。そして何よりも自分も大学で研究を学んできた人でしたから、そのようなある種の外部分子に対して余り嫌な感情というのを持っていませんでした。他のJ町民も同じように発展させてもらった過去がありましたから、新たな改革に対して柔軟な姿勢でした。その成果もあって新たな農家を受け入れ、企業農家の受け入れなど、当時は開発が鈍っていた産業がJ町では盛んになっていきました。それが今でも続いていますよね。ほら、最近では卸売りを介さないレストランの契約農業や、一部区画を特定の品種に絞って使う高級食材路線での栽培などにも積極的に乗り出していますよね。ふるさと納税も好成績を残していると聞いています。私の知る限り、J町の農家は農家同士で比べても、裕福な家ばかりに思います。その基盤を作った岸野家はまさにJ町の顔と言えるでしょう。どうしましたか、あまり嬉しそうではありませんが。すみません、少し話題が逸れてしまいましたね。J町はそんな町でしたから、当時も様々な角度から住民を呼び集めようとしていました。その一つに建築事業に携わる人間を呼び集めていたのです。潤沢な資金力を手に入れたJ町は生活インフラの向上、冬場でも行き来ができるような道、夜間灯の設置などを行うことにしました。これらを実行するには作ってくれる建設会社が必要になります。そこでJ町は今後も発展させていくことを考えてI市に依頼し、J町では集めきれない事業者をI市の建設事業者から呼び寄せ、長い付き合いをして欲しいという旨の依頼をしました。そしてそこで働く人の中で、J町の事業に特化する人をJ町に住まわせる、と言うところまで計画していたそうです。道路事業やインフラ事業はかなりの年月がかかりますし、潤沢な資金をもとにした公共施設の建設も近いうちに作っていこうという計画もありましたから、そうなるとJ町にそのような仕事の人が住んでいる方が、お互いにメリットだろう、という考えだったようです。当然、J町に住む人たちだけで現場を回すと言う訳にはいきません。そこでの橋渡し役が必要になります。

 ちょうどその頃、移住をし始めた人がいました。その中の一人が佐藤啓太さんです。件の騒動のせいで都会に住み続けることに限界を感じていた佐藤一家は田舎への移住を考えました。その時にJ町の募集を東京の役所で目にして、数回訪れて移住を決意しました。というのも、田舎を移住する上で考慮に入れなければならなかったのが仕事です。啓太さんは特殊な資格や技術を持っている訳ではありませんでしたから、すぐに仕事に就く自信がありませんでした。その中でJ町は建設事業に取り組む人を優遇し、補助金を出すと言う宣言まで行っていました。既に建設事業におけるノウハウの基本を収めて成果を挙げていただけあって、この業種での就職ならできると自信を持っていました。

 啓太さんは移住する前にI市にある数十人が勤める建設会社に行き、そこに応募することになりました。この時、その建設会社はもちろん啓太さんが前の職場で経験した失態を知っていました。当然です、同業者ですからね。知らない訳がありません。あの事件についての詳細な噂は日本中の建設会社が知るところです。しかしその建設会社は啓太さんを雇うことを決めました。まあ、雇う側としてある意味いい買い物です。大手のゼネコンと比べれば格段に給料は安いですし、それでいながらそこで失態がありながらも成果もだしている人材を最も容易く手にすることができたのです。このような比較をすることは社会的には嫌がられるかもしれませんが、事実として啓太さん以上に高い学歴を持った人間をこの会社は雇ったことはこれまでありません。まさにお買い得もお買い得だった訳です。

 しかしそれはあくまで運営上層部の感覚です。他の従業員の目は実に冷ややかなものでした。泥臭い現場仕事を知らないであろう、学歴に固執した無能のホワイトカラー。それが一般従業員が持っていた啓太さんへのイメージでした。もちろんこれはほとんど妄想で、風評被害も甚だしいです。啓太さんは前の会社時代には積極的に現場へ足を運び、そこの監督者との交流も欠かしませんでした。それと……そうでもしなければ手抜き工事なんてやってもらえませんからね。だから……良くも悪くも現場の人間との関係性はそれほど悪くなかった、と言うことはフォローしたいと思います。え、フォローになっていませんかね。まあ、そうですね。とはいえ現場の人間と上層部の関係性なんて悪くて普通ですからね。そのような関係を築いていた啓太さんはやはり優秀な人だったんだな、と私はこの話を聞いて思いました。そんな立場が違う人とも上手に関係性を築く力、というのは啓太さんの強みであったのですが、新しい職場ではそうはいきませんでした。啓太さんがそれまで持っていた自信はすっかりなくなってしまったのです。ミスをしたことに対する地位やお金とは異質の制裁、そんな音のない圧力に対して既に怯んでいたのです。余計な関係を結べば、自らの失態がバレるかもしれない、まだ世間に流出していない問題までも広まるかもしれない。そんな不安から、せっかく声をかけてきてくれた社員に対して、厳しい態度を取り続けてしまいました。

 そんな状況下でしたから……。

 苦労をしていたのは啓太さんだけじゃありませんでした。少年を覚えていますか。少年は寄り添ってくれる友達がいたかつての故郷である東京から、このJ町へ連れてこられることになりました。両親はもう東京に軽いトラウマのようなものすら持っていて、少なくともここ数年の間に戻るつもりはありませんでした。当然、子供も連れて田舎へ向かった訳です。少年は小学校を離れる前に、お別れ会まで開いてもらい、楽しい思い出を抱えながら、そこに寂しさを包んで田舎へ行きました。当然、思うところは沢山あったと推測します。でも、それを表には出さなかったそうです。子供なりの精一杯の思いやりだったのでしょう。もちろん両親へ向けた思いやりです。お別れ会の時、友達に「落ち着いたら手紙送ってくれよな」と言われたようです。もちろん、少年も心の底から嬉しかったでしょう。この約束はおよそ一年後に果たされることになります。

 田舎に到着した少年は自分がそれまで知っていた世界とは全く異なる田舎というものに衝撃を受けました。もちろん、テレビの旅番組やワイドショーではなにかとこのような地域が映し出されます。しかしお父さんのお仕事が忙しいせいで、首都圏よりも外側への旅行という経験はなく、数度テーマパークや何らかの移動に通過した程度でした。それに対して、いま少年が目の当たりにしているのは古びた木造の家。今までの高層マンションとは違います。しかも家の敷地内には何も置かれていないだだっ広い庭。そしてそれをさらに囲うようにどこまでも無限に続く畑。これから自分が住む環境であるとすぐに受け入れることなど、とてもできませんでした。そうなると、それまで堪えていた涙が急にドッと溢れ出て、堪らず少年は泣き始めてしまいました。啓太さんはムッとしました。自分はこれからここで前向きにやってやるんだ、とそう決意して楽しみだと自分に言い聞かせてやってきたのですから。しかしそれと同時に、少年の気持ちもよくわかります。そんな相反する気持ちに挟まれ、何も言えませんでした。一方の母親はといえば、さっさと引っ越しに取り掛かっており、大きな荷物を持ちながら片手間に「早くあんたも運びなさい」と少年に冷たく伝えるだけでした。それでも泣き止まない少年。荷物を置いて出てきた母親は苛つきが限界に来たようで大声で叱ろうと息を吸い込みました。その時です。自転車にのった駐在さんがやってきました。そして両親に

「やあ、どうも」

と帽子を取って挨拶をしました。年齢は四十代で細身の男です。啓太さんより年上でした。駐在さんは少年の方へ歩み寄ってしゃがみ、声をかけました。

「はじめまして。駐在の五十嵐です。お名前は?」

そう聞くと少年は

「宏太」

と小さな声で答えました。

「宏太くんか。今日からここにきたのかな」

駐在さんの質問に何も言わずに小さく頷きます。

「そうか。おじさんはね、ここでずっと駐在さんやってるんだ」

首を傾げて

「駐在さん?」

聞き返しました。駐在さんは続けます。

「そっか。宏太くんがいたところは都会だったから駐在さんなんていなかったよね。駐在さんっていうのは、ここに住んでるお巡りさんなんだよ。だからもし困ったこととか、助けて欲しいことがあったらいつでも声をかけてね。普段はこの道の先にあるJ駅の近くの駐在所にいるから。もう一人、五十歳過ぎのおじさんの駐在さんもいるから、すれ違ったら声をかけるといいよ。見た目はおっきくておっかないけど、優しいお巡りさんだよ」

そういうと少年……宏太くんは少し和らいだ表情で、うん、と頷きました。駐在さんは胸ポケットからあるものを取り出し、少年に渡しました。

「じゃあ、これあげる。向こうの山上にある神社のお守りだよ。この町の守り神様だから大切にしてね」

少年は手にしたお守りをすぐに後部座席に置いてあったランドセルにつけました。そして

「ありがとう」

と可愛らしい小さな声で言いました。

 そのやりとりを見ていたご両親は、表情を緩めることはありませんでしたが、駐在さんに会釈をしました。駐在さんはお父さんにこう話しかけます。

「はじめまして。J駅駐在所の五十嵐です。こちらに越して来られたのですか」

「はい。佐藤と申します」

駐在さんは啓太さんの出立ちを見て尋ねます。

「企業農家の方ですか」

啓太さんは少しばつが悪そうに答えました。

「いえ、I市の方の会社で現場との繋ぎをしています」

「ああ、I市でお仕事を。まあ、何か困ったことがあればいつでも声をかけてください。私もここに移住する形で働いていますが、町の方は優しいですよ。とは言ってももう十年近く昔の話になりますけどね。じゃ、また」

そう言って自転車に乗って離れて行きました。

 翌日から、さっそく宏太くんは学校へ通い始めました。

 町には小学校と中学校が二つずつあります。東小学校と西小学校ですね。高校は一つです。規模は同じくらいで、クラスは学年に一クラスずつ、人数は二十人くらいいましたから、それなりに子供がいたということですね。まあ、今ではさすがに西側の学校が廃校になってしまいましたけれども。ちょうど宏太くんが通っていた方ですね。そうか……振り返って考えてみればあの頃は町の片側だけに百人以上の子供がいたんですね。いや、なんでもありません。

 それで、宏太くんが教室に入ると転校生の自己紹介を促されました。そして休み時間にはそれなりに声をかけられて、特にスターになることはありませんでした。というのも、この頃には転校生は特別珍しいものではなかったのです。毎年一人から二人ぐらい来るのが二年も続けば生徒たちも慣れたものです。しかし数週間もすると徐々にクラスが二分されていることになんとなく宏太くんは気付いてきます。それは「農家の家」と「それ以外の家」でした。

 擁護という訳ではありませんが、二分されていたのは、子供たちや大人たちが差別意識を持っていたからではありません。理由はいくつかあります。まずこのJ町に住む人は多くが農民であることです。次に農協の集まりでは家族みんなが出席することです。幼い頃から農家の子供たちは一緒に集まりに参加させられ、飽きれば一緒に抜け出して近くの山や神社で遊ぶ。少し大きくなれば、大人たちより先に帰って、誰かの家で遊ぶ。そんなことを繰り返していましたから、小学校に入る前からすでに仲良しです。親の働き方も同業者であればほとんど似ていましたから、予定を立てる時などにもお互いを無理に意識する必要もなく気楽でした。

 そしてもう一つは金銭的な余裕さです。これは子供心にも意識を持ってしまいます。なんと言ってもこの町の農家は他の地方と異なって、揃いも揃って裕福な暮らしをしています。娯楽施設は少ないこともあって最新のゲーム機やおもちゃはよく買ってもらえます。それに一年に一回以上は家族旅行でいろいろな場所に行きます。もちろん、特に仲の良い家族同士であれば、一緒に旅行に行くなんてこともあったでしょう。学校で、何かとそのようなゲームやおもちゃなどが話題になることは珍しいことではありません。そして誰が一番にクリアするだとか、どれをコレクションするだとか、そのような話に参加できるのはそれを楽しめる環境に置かれた子供たちの特権なんです。一方で、農家ではない町民の多くは、ごく一部を除けばI市の職場で働いている会社員や公務員の子供たちがほとんどです。自然と会話に差が生まれ、話さなくなるのも仕方のないことでした。先生方ももちろん気付いていますが、特に手を打つことはしません。別にいじめがあったわけではありませんし、どちらかがどちらかを無視したり仲間外れにしたり、ということもしません。運動会などのイベントでは協力しあって楽しんでいますし、子供たちだけで肝試しなんかをする時はちゃんとクラス全員を誘っていましたからね。

 それほどまでに見えづらく、問題にならなさそうな溝が、ある時は人を苦しめたりもするのです。

 このクラスで頭の良い人は誰か、と聞けばすぐに答えが出ます。まずは優秀な父によって優秀になるよう育てられ続けていた宏太くん。そしてもう一人はJ町きっての大豪農、岸野龍二さんの孫である巽くんです。友達にはタッちゃんと呼ばれてましたね。岸野家の長男ということもあり、父親からはもちろん、祖父の龍二さんからも期待されながら育ちました。頭の良さはもちろん、優しい性格で友達の多い子です。宏太くんと巽くんは五年生終わりの頃になれば、頭の良い者同士で話も合い、帰る方向も同じだったのでよく行動を共にしていました。この出会いは宏太くんに取っては非常に大きな出会いでした。グループに同じ方向へ帰る友達がいなかったことで、半年近く、長い長い帰り道を一人で歩いて帰っていましたからね。その心細かったことといえば、察するに余りあります。駐在さんはしょっちゅう心配になって遠くから見守っていたものです。時には偶然通りかかったふりをして、カゴに少年の荷物を入れてあげて一緒に帰ったりなんかもしていました。それがある時から岸野さんのお子……巽くんと一緒に帰るようになって、気付けば毎日のように一緒に帰り道を歩いていました。その楽しそうな表情を見ると、なんだか嬉しいような、少し離れてしまって悲しいような、そんな気持ちになったものですよ……駐在さんは。

 しかしその出会いは宏太くんの性格を変えてしまいました。いや、もともと根の奥の奥に秘めていた感情が浮き出てきたのかもしれません。

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