K駅
一月を暖かに過ごすには、南国のビーチか北国の屋内が最適である。東北の列車は大袈裟なほどに暖房をつけていて、近年の財政難を思わせない。乗り込んだ男の眼鏡は一瞬で曇り、視界を奪った。
「おっと」
男は一言呟くとゆっくりと眼鏡を外し、ポケットから取り出したハンカチで眼鏡を拭いた。そしてデッキで両側の車両を窓から覗き、中の様子を見ていた。そこから数秒だけ考えて、後方の車両に入る。前から二番目で左窓側の座席に二十代と見える青年が座っていた。男はその席を見ながら歩く。青年はイヤホンをつけてスマホで動画を見ながら大きな欠伸をしようとした。その時、やたらと強い視線をぶつけてくる男に気付いた。おいおい、面倒なやつじゃねぇだろうな。こんなド田舎列車で勘弁してくれよ……と思いながら、自らの視線をスマホに集中させ、寄せ付けないオーラを放つ努力をした。しかし、その努力は虚しく散った。
「もしもし、お隣空いてますか」
勘弁してくれよ、と心の中で溜息をついた。いや、少し漏れていたかもしれない。とりあえず、話しかけてきた男の方に目をやった。男は白髪の多いグレーの髪で、体躯は小柄な、丸い眼鏡を掛けた優しそうな五十代である。外套の前方こそ開け放しにされていたが、シャンとした出立ちである。もし、男の風貌がボサボサとした頭で薄汚れていて、口汚く「詰めろよ」などと寄ってくれば、青年は即座に喧嘩沙汰も厭わない対応をしたかもしれない。しかし言葉遣いにしろ風貌にしろ、怪しさを感じさせない男に対して、舌打ちの一つも打てない程度の教育を、青年は親から受けていた。とはいえ、さすがにこの状況に対して即座に了承するほど度量の大きい人間でもなかった。青年は仕方なくイヤホンを外して男に話す。
「いや、あの……この列車ほとんどの席が空いてますけど」
そう言って立ち上がり社内全体を見渡した。数席埋まっているが、ほとんどが空席になっている。それとなく視線であっちへ行け、と伝えたつもりであったが、男は迷う様子もなしにその要請を無視した。そしてあろうことか
「いいじゃありませんか」
と静かな声で呟いて外套を棚に置くと、躊躇うことなく隣の席に座った。こいつ、マジか。マジの面倒臭いジジイか。この風貌でヤバい奴だったか。青年は一瞬でも隙を見せたのであろう数秒前の自分を恨みつつ、これ以上の詮索をした場合、この謎の男の本性が現れて、それが極端な話ではキレやすい殺人鬼であったことを考えて、すごすごと引き下がった。流石にこの狭い車内で包丁を振りまわされてしまっては、命の保証がない。
目的の駅まで三駅。時間にして二時間以上。都会ならば一本先の列車にできるだろうが、この地域では次の電車まで一時間待たねばならない。青年は次の駅で急いで降りて、別の車両へ移動しよう、と心に決めた。隣の男はスマホを取り出して何かをしている。それならばなるべく関わらずに済むように改めてイヤホンをつけよう、と耳元に持っていこうとしたら男が話しかけてきた。
「どちらから乗られましたか」
青年には聞こえなかったふりをして無視をするという選択肢もあった。しかしちらりと視界に入った男の目が、素人の眼光ではなかった。自分の様相を詮索されているのがその視線から伝わる。不用意なことをするな、と本能が訴えかけてきた。青年はなるべく警戒を怠らないようにしながら答えた。
「この駅です」
そう答えると男はフフッと鼻で笑った。あたかも青年が吐いた嘘を見抜いたようである。しかしそれを指摘することはしなかった。いや、青年は自分が嘘を吐いたから見抜かれたと感じているだけで、実際には気付いていないのかもしれない。別に男を騙そうとか、そういう理由で嘘を吐いたのではない。ただ僅かな情報すらも与えるのを防ごうとしただけだった。たった数駅分の嘘であったがなんとも言えない罪悪感があった。
「そうでしたか。ではお住まいもL駅の方ですか」
「え、ええ。駅からは離れていますけれども」
「そうですか。あのあたりは農業も盛んですし、大幅に減ったとはいえ子供もまだいますからね。L市は綺麗な街ですよね。この時期は畑も真っ白に染まっていますけど、開けた景色で白いのも中々美しいと思いますよ」
「そ、そうですかね。毎年同じ真っ白な景色では飽きますよ」
「確かにそうですね」
青年はこのまま会話を続けていてはいつかボロを出すのではないかと危惧していた。別にこの男に嘘であることがバレたからと言って、何かをされるとは思っていない。しかし、どうにも不安を与える男である。先ほどから受ける印象はごく普通の中年男性でありながら、行動は明らかに異常だ。青年は話が一瞬途切れたこの隙に、話題を男の方向に逸らすことにした。
「あなたはここら辺の方なんですか」
「ええ。普段は車ですから、あまり今日のように列車に乗ることはないんですが」
「じゃあ、旅行とかですか」
「まあ、そんなところです」
嘘だ。青年は特別に勘が鋭い訳ではないが、この質問はブラフである。男は手荷物一つ持っていない。そもそもこの列車はこの後も大きな都市には停まらない。終点のN駅は比較的大きいがスーパーがあるぐらいで、この辺りに住んでいる人間からしても買い物に行くぐらいの場所だ。観光地に類いする場所としてはスキー場やそれに関連したホテルなどもあるが、やはり男の装備はどう見てもスキーに行く人のそれではない。そもそもここ数日はスキー場に来る人はほとんどいなかった。強いて言えば海辺なので港がある。しかしこの極寒の時期に海で泳ぐ馬鹿はいない。
青年はこのことを突きつけるかどうか迷った。仮にこの男が嘘を自白したところで、何かメリットがあるとは思えない。というかこの男が何を考えているのかが未だに理解できていない。ここは追及の前に男の正体に近づくことが先決であろう。
「あの……」
話しかけたい気持ちはあるが、男の方を向く勇気は出ない。軽く俯いたまま青年は喉の奥から声を絞り出した。
「お仕事は何をされているんですか」
男はその質問を聞くと、鼻で小さく溜息をついた。そして首を少し捻って通路側に人がいないこと、そして少しだけ身を乗り出して背もたれ越しに奥の方をみて戻った。
「少し声のトーンを落としていただけますか」
男はそう言って口を結んだ。怒らせてしまった、と青年は後悔した。それと同時に、特段大声で騒いだいた訳でもないだろう、という怒りも湧いてきた。そもそも自分の隣に突然座り込んできて、話しかけ始めたのだってお前だろうが、と思った。それを言いたい。この男に言ってやりたい。この論駁には自信がある。青年は息を吸い込んだ。しかし、これらの言葉をぶつけることができるような度胸はやはりなかった。この男から醸し出されているオーラにはなんとも攻撃し難い要素があるように感じる。青年は仕方なく吸った息を溜息として吐き出し、眠りでもつこうかとイヤホンを耳に持っていった。それを男は軽く止めて話し始めた。
「少しだけ、私の話を聞いていただけますか」
青年の耳にどうにか届くほどの声量だった。線路を通る音以外には何も響いていない車内だったが、男の声は線路の音よりも小さく、一つ後ろの席にはもう聞こえないであろう程の大きさだった。
「え、ええ」
「ここらで一番大きい街といえば、まあI市でしょう。県庁所在地のX市なんかと比べれば小さな街ですけど、商業施設もあるし、近くの若者が遊びに来る場所になっています。それにここらで優秀な高校生たちはL市の子でもI市の高校に通うんじゃないですかね」
男は青年の方を見た。
「あー、はい。確かに私もI北高校に通っていました」
「そう思いました。その中でも一、二番を競うくらいに勉強が得意な子は、東京の大学に通うようになりますね。それ以外の子は七割くらいがX市の大学に通い、残りは就職という感じでしょうか。あなたは……東京に行かれましたか」
なぜ分かったのだろうか。青年は確かに東京の国立大学に通っていた。「私の話を聞け」という割には半ば詮索のようなことばかりしてくる。いや、あるいは分かっていて答え合わせぐらいで聞いているのだろうか。とはいえ誤魔化すメリットも見つからない。
「はい。まあ、そんな一、二位を争う程頭が良かったわけじゃないですけど。あまり田舎は好きじゃないんです。でも、よくわかりましたね」
「ええ。そういうの結構当てられるタイプなんです。なんていうか、人を観察するのは習慣のようになってしまって。あまり心象がよくないこととは分かっているのですけど、体が勝手にやってしまうもので」
そう言って男は頭を掻いた。
「あなたの言うことはよく理解できます。田舎で育った人間は田舎に戻りたがる、というのは都会の人間の幻想ですよね。確かに都会の喧騒に嫌気がさして戻ってくる人は沢山いらっしゃいますけど、東京に骨を埋める人だって少なくありません。田舎独特の閉塞感はなかなかに辛いものがありますから」
そこへ台車を引いた車内販売の若い女性が後方の扉を開けて入ってきた。
「この列車にはまだ車内販売があったんですね」
男がそう呟いた。青年は少し違和感を覚えた。この男が旅行中であるというのはおそらく嘘にしても、この列車にあまり乗らないというのは本当なのだろうか。それとも普段から乗っていないよう装うためにそのような発言をしたのだろうか。
「ええ。観光シーズンだけですけどね。確か、ちょうど明後日当たりで冬シーズンの車内販売は終わるんじゃないでしょうか」
「この列車にそれほど多くの人が乗るんですね」
「ええ。終着駅のR駅の近くで数年前にオープンしたスキー場が、えーと……三年くらい前でしたかね。ヒットしたアニメだったかドラマだったかの舞台になってちょっとしたブームになったのがきっかけで、それ以来この時期は結構お客さんが来るんですよ」
「なるほど。ここ数日は暴風が出て山も開かないから人が少ないんですね」
「ええ。一週間前くらいは結構混んでましたよ。指定席はいっぱいでしたね」
「そうですか。ちなみにですけど、お昼ご飯は召し上がりましたか」
「い、いえ。降りてからコンビニで食べようかと」
「それじゃあ無理言って隣に座らせてもらったお詫びと言ってはなんですが、お弁当をご馳走しますよ」
「や、結構ですよ」
「まあ、そう言わずに」
男は胸ポケットから手帳を取り出すと、一緒に取り出したペンで何かをスラスラと書いた。そして後ろから近付いてきた販売員を呼び止めた。
「すみません、注文を」
「はい、こちらがメニューでございます」
「ほら、お好みをどうぞ」
これ以上敬遠のやり取りをしても販売員の人に迷惑がかかるだけだ。そう思った青年はすき焼き弁当を頼んだ。
「いいですね。でも私は……幕の内弁当で」
「かしこまりました。他にご注文はございますか」
「いや。あ、これを後で」
男はそう言って、手帳のページを切り取って渡した。
「は、はあ……」
困惑する販売員に男は小声で
「必ず見てくださいね」
と伝え、
「それとお弁当、お願いします」
と急かした。
「あ、こちらをどうぞ」
と二つの弁当を渡された。男は青年にすき焼き弁当を渡し、椅子前方のテーブルを開いた。販売員はそのまま台車を押して車両から去っていった。青年はすき焼き弁当を受け取りつつも、なおこの男が嫌いになった。歳が二周りほど離れている、まるで自分の娘ほどの年齢の女性に連絡先でも渡してアプローチとは、近年稀に見るキモオヤジである。それがあからさまなヤバいやつではなく、一見すると優しそうな風貌であるからなおのことタチが悪い。
「まあ、まだ長旅ですからね。食べましょう」
男はそう言って弁当を開くと、ぱくぱくと食べ始めた。その速さはなかなかなものである。口の中のものがなくなるかどうか、というタイミングで早くも次のものを口へ運んでゆく。この男、初めて見た時から見た目相応の振る舞いを一切しないやつだ。いったい何を考えているのかさっぱり分からない。正直これ以上この男とも喋りたくないし、そもそも声のトーンを抑えて喋り続けるのも疲れた頃だった。青年はもう寝ようか、とも思ったが弁当を目の前に眠ることもできず、仕方なく隣でテーブルを開けて食べることにした。青年が箱の内側からお手拭きを取り出して手を拭い、箸を取り出して割って「いただきます」と手を合わせた頃には、すでに男の弁当は九割が食い尽くされてしまっていた。本当に気持ち悪い奴。次の駅で絶対に降りる。青年はそう心に誓う。残りの一割をやはりあっという間に食べ終わった男はポケットから小さなペットボトルのお茶を取り出して飲んだ。そして口を開く。
「少しだけ、お話ししてもよろしいですか」
何が少しだけお話し、だ。お前はずっと喋り続けているだろう。何を今更改って喋り始めるんだ。青年の苛つきは天井を触り始めていた。だが、大人の理性でギリギリ
「好きにしてください」
と答えることができた。
「ありがとうございます。これは今よりも少し前のお話しです。少し前の、J町のお話です。あなたの住むL市とI市のちょうど間ですね」
嘘を蒸し返されたようで気に障る。俺はJ町で乗った。だが、この嘘は通しきろう。
「ええ。そうですね」
「J町に生まれた、ある男の話です」