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石造りの暗い廊下を、蝋燭の明かりを頼りに進む。莞備公妃仁優所有のこの屋敷の地下室は、王国の首都にあるにも関わらず迷宮のような造りになっているそうだ。とにかく上に行けば何とかなるだろう。急ぎ足で歩きながら、六角公はそう、言った。
「疲れたか?」
不意に、六角公が尋ねる。
「いいえ」
ここで六角公に心配をかけてはいけない。禎理は無意識に首を横に振った。と、その時。複数の足音が聞こえてきて、禎理は思わず足を止めた。
「ちっ」
六角公の舌打ちと同時に、蝋燭立てが禎理の手に押し付けられた。
「隠れてろ。すぐに終わる」
六角公の声が消えるや否や。二人の眼前に、五人のならず者が現れた。
「この野郎」
「諦め悪く逃げやがって」
汚い言葉が、次々と発せられる。六角公は黙ったまま、腰に差した長剣の鞘を払った。
「隠れて」
短く、それだけ言われる。次の瞬間、六角公の長剣は一番前にいたならず者をまっ二つに、していた。そして更に。禎理がもう一息つく間に、もう一人、ならず者が地面に倒れて呻いていた。すごい。それしか、言えない。六角公の戦いぶりに禎理は目を奪われてしまって、いた。
と。
「あなたも、逃げていたとは」
不気味な声と共に、身体が後ろに引っ張られる。叫ぼうとした口は、見覚えのある大きな手に塞がれた。禎理を後ろから羽交い締めにした、この腕を、禎理は知っている。……例の、森で禎理を襲った吸血鬼、だ。
細い腕であるにも拘わらず、どんなにもがいても身体に回された吸血鬼の腕を振りほどくことが、できない。後ろに引きずられるままに、禎理の身体は廊下とは違う造りの妙に明るい部屋に連れて行かれて、いた。
「ここなら、ゆっくりできそうですね」
禎理を床に押し倒した吸血鬼が、にやっと笑う。高位の修道士が着る黒のローブを身に着けていたが、顔に張り付いたような嫌らしい笑みは、絶対に吸血鬼のものだ。禎理は勝手にそう判断した。とにかく、逃げなければ。ありったけの力で、のしかかってきた吸血鬼の身体を突き飛ばす。力の掛け方が良かったのか、吸血鬼は禎理の身体から離れた。この好機を、逃すわけにはいかない。禎理は六角公から貰った短剣を手にすると、吸血鬼の後ろにある扉に向かう為に突進の構えをとった。その、次の瞬間。再び、身体が後ろに引かれる。気が付くと、禎理の身体は部屋の壁にぐるりと掛かっていたカーテンの後ろに、あった。そして、禎理の左腕を掴んでいたのは。
「珮理さん!」
思わず、掴まれた左腕を強く振る。だがすぐに、禎理は自分の置かれた状況に気づき、動きを止めた。そしてまじまじと、珮理を見つめる。禎理のある意味失礼な行動にも、珮理の瞳は優しげな光を湛えたままだった。
「何故、ここに?」
思わず、尋ねる。しかし珮理がここにいる理由は答えなしでもすぐに分かった。六角公と同じ理由だろう。公妃の屋敷に魔物が捕らえられていると聞いて、数や数の部下達と共に潜入したのだ。
「だけど、数達とはぐれちゃって」
しばらく様子を見るつもりでこの部屋に入ったのだが、すぐに吸血鬼が禎理を連れて部屋に入ってきたのであわててカーテンの後ろに隠れたと、珮理は独り言のように禎理にそう、説明した。
「数から、身を隠す法力をもつお札を貰っておいて良かったわ」
すぐ側のカーテンに貼付けられた細い紙を指差して、珮理が笑う。身を固くしたままカーテンの隙間から外を見ると、動揺した顔の吸血鬼が部屋中をうろうろと歩いているのが、はっきりと見えた。
「後は……数が来てくれると助かるんだけど」
そんな禎理の背後で、珮理がそっと呟く。その横顔に心をざわつかせながら、禎理は夜のことを問う方法を、探した。珮理が自分を助けようとしてくれた/くれていることは、分かっている。だが、それとこれとは別だ。珮理が『吸血鬼』なのかどうか、確かめなければ、珮理の側にいるだけで起こる、痛みに似た感情が収まらない。だが。禎理が口を開くより早く。業を煮やしたのだろう、吸血鬼が急に立ち止まり、頭上に何か模様のようなものを描き、低い声を漏らした。
「あれは!」
珮理の懸念は、不幸にも当たった。空間が破け、暗闇よりも暗い色が流れ出る。その色は部屋の中で、部屋の高い天井に頭がぶつかるほどの大きさのオーガーの形をとった。
「なっ!」
絶句する珮理の前で、召還されたオーガーが得物の棍棒を振り回す。たちまちにして、二人が隠れているすぐ側のカーテンが宙を舞った。このまま、では……。背筋が凍る。珮理も同じことを考えたのだろう。珮理は急に禎理の左腕を掴むと自分の方へ向き直らせた。
「これは、使いたくなかったけど。……ごめん」
その呟きと共に、珮理の顔が禎理の眼前に降ってくる。きつく抱きしめられる感覚の次に来たのは、唇に柔らかいものが触れる感覚。これは、口づけ……? 戸惑いを感じた、次の瞬間。鋭い痛みが、禎理を我に帰らせた。禎理の下唇に、珮理の牙があたっている。血を、吸われているのだ。そのことに気付いたのは、珮理の唇が禎理から離れた時、だった。
禎理に向かって、珮理が艶な笑みを見せる。次の瞬間、二人の上に落ちてきた棍棒を、珮理はその細い腕でしっかりと受け止めて、いた。
「な……」
声も、出ない。禎理は呆然と、オーガーと棍棒の引っ張り合いを始めた珮理を見つめる他、無かった。唯一つ、理解できたことは、禎理の血を飲むことで、珮理は、オーガーと渡り合える『力』を得た。それだけだ。
と。
「……いた」
聞くのも嫌な声が、禎理の後ろで響く。禎理は思わず右腕を振った。その時になって初めて、禎理は六角公から貰った短剣を抜き身のままずっと握っていたこと、そしてその短剣が何か軽い物を切ったことに気付いた。
禎理の行動に不意を突かれた吸血鬼が後ろに飛ぶ。その吸血鬼と、短剣を構えたままの禎理との間に赤い小さな塊が落ちているのが、禎理の目にはっきりと、映った。その輝きは、どこかで見た覚えがある。
「拾えっ! 禎理」
聞いたことの無い少年の声が、禎理の耳を打つ。その声の命じるままに、禎理は赤い光の方へ飛び込んだ。だが。行動は吸血鬼の方が早かった。塊を掴もうとする禎理の指と吸血鬼の指が僅かに絡み合う。次の瞬間。
「あっ!」
力加減が悪かったのか、赤い塊があさっての方向へ飛んでいく。その塊は、丁度オーガーを奪った棍棒で殴り倒したばかりの珮理の胸に吸い込まれ、消えた。
「え……」
珮理の戸惑いの声が、微かに聞こえる。次の瞬間、珮理の身体は床に頽れた。
「珮理さんっ!」
走り寄ろうとする禎理の身体が、横に突き飛ばされる。よろめく禎理の側を、吸血鬼の黒いローブが走り去った。
「珮理さんっ!」
もう一度、叫ぶ。助けられない。絶望を感じた心は、だが、次の瞬間力が抜けたように安堵に包まれた。
「お前が、吸血鬼か?」
珮理と吸血鬼の間に、黒い影が割って入る。数、だ。助かった。床に倒れながら、禎理はふっと息を吐いた。だが。数を認めた吸血鬼が、左手を少しだけ動かす。次の瞬間、数が吸血鬼を掴むより早く、吸血鬼の姿は煙のように消えてしまって、いた。
「ちっ!」
数の舌打ちが、部屋に響く。しかし珮理を助けるのが先だと思ったらしい。数はぐったりとした珮理の身体を抱き上げると、その胸に自分の耳を当てた。
「数……」
その二人の側に、這って行く。先の行動の所為か、血が足りない状態がますます悪化したらしい。
「珮理さん、大丈夫なの?」
近づいてから、声を出す。囁くような声しか出ないのが、恥ずかしい。禎理の問いに、数は「何故お前がここにいるんだ?」という表情をありありと浮かべてから、少しだけ笑ってこくんと頷いた。
〈良かった……〉
ほっとすると同時に、視界が急激に暗くなる。温かな闇が、再び禎理を抱きとめた。