1-7
雫の音で、目覚める。暗く冷たい空間が、禎理を出迎えた。
〈ここは……〉
何処だろう? いや、それよりも。身体に力が入らない。空気の湿っぽさと、背中に当たっている石の床の冷たさは、感じるのに。……それから、左首筋の痛みも。痛む箇所に、そっと手を当てる。服が破れていることと、濡れていること、そして前に吸血鬼に血を吸われた場所と同じ所が同じように傷になっていることが、すぐに分かった。
〈どう……〉
全身が、震える。また、吸血鬼に血を吸われてしまった。今は何故かまだ生きてはいるが、吸血鬼の毒が身体に入ってしまった。遠からず、自分も吸血鬼になってしまう。……毒を吸い出してくれるアテは、無いのだ。逃げてしまったのだから。涙が次々と溢れてくる。禎理は思わず強く目を瞑った。
と。温かい感覚に、再び目を開ける。心配そうに光る模糊の小さな瞳が、禎理の目の前に、あった。
「模糊」
その小さな身体を、ぎゅっと抱きしめる。肉親全てを流行病で亡くしてすぐ、模糊を魔物捕獲の罠から助けた時も、こうやって泣いているところを模糊に慰めてもらったことがあったっけ。ぼうっとする頭の片隅で、禎理はそんなたわいもないことを思い出していた。
「ありがとう、模糊」
そう囁いて、少しだけ手を緩める。次の瞬間。模糊は禎理の手からぽんと飛び上がると、床に着地し、暗闇の方へ姿を消した。どうしたのだろう? 模糊の姿を、目で追う。すぐに禎理は、模糊が暗闇へ向かった理由を知った。禎理の左手側、腕を伸ばせばすぐ届くところに、無数の籠が積み重なっているのが、見える。籠の向こうから、何かが動く気配が、確かに感じられた。
〈何……?〉
仰向けのままにじり寄り、籠に手を伸ばす。感じたのは、樹皮で編んだ籠の荒さと、指が微かにしびれる感覚。
〈魔法……?〉
禎理自身は魔法は使えないが、蛇神の森で暮らしていた所為か、魔力や法力の感覚は何となく知っている。魔法を掛けた籠で閉じ込める必要があるモノは、おそらく、一つ。……魔物が、捕らえられているのだ。こうしてはいられない。力が入らない身体に鞭打って、何とか上半身を起こす。すぐに、強い目眩が、禎理の視界をぼやけさせた。
と、その時。少し上の方から部屋の中に光が差し込み、禎理の目を刺激する。禎理が目を擦っている間に、光はランタン並みの明るさになった。……人々の争う声も。そして。
「ほら、入れ」
光が扉型に開くと同時に、大柄な影が幾つもの影に突き飛ばされて部屋に入ってくる。
「しばらく大人しくしてるんだな、六角公さんよ」
その声と共に、扉を閉めるバタンという音が大きく響いた。すぐに、部屋はもとの暗さに戻る。残ったのは。
「おいっ! 開けろっ!」
扉に体当たりする音が、何度も空しく部屋に響く。
「無理だね」
その音に呼応するかのように、遠くから馬鹿にしたような声が聞こえてきた。
「その扉は無理矢理じゃ開かないぜ、六角公さんよ」
六角公……? 二度聞こえたその名に、扉に体当たりし続ける大柄な影を仰ぎ見る。先頃先代の跡を継いだばかりである新しい六角公、真のことは、禎理も小耳に挟んでいた。 これも先頃先代を継いだ天楚王の従兄弟に当たる人物で、天楚でも由緒正しき貴族の一人。年はまだ二十代だが、年に似合わず落ち着きのある青年だという噂と、歴代の六角公の例に漏れず、彼にも少し変わったところがあるという噂を、禎理は同時に聞いていた。 実は彼も魔物捕獲には大反対で、しばしば『蛇神の森』に入り込み、魔物捕獲用の罠を壊す作業に勤しんでいる、という噂も。……森は広いので、禎理自身は直接六角公と出会ったことはないのだが。
やっと、体当たり音が止む。くるりとこちらを向いた六角公の目が禎理を捉えたのが、すぐに分かった。
「君は……?」
その問いに、声が出てこない。自分の状況をどう説明すれば良いのか、いや、最下層民である『流浪の民』出身の禎理が、貴族である六角公に口をきいて良いものなのか? そんなことで禎理が迷っている間に、六角公の目が禎理の目の前に来て、いた。
「身体が、冷たい」
六角公の力強い手が、禎理の頬から胸へと降りる。
「どのくらい閉じ込められているのか知らないが、治療が必要だ。……くそっ」
そう言いながら、六角公は自分のマントを脱いで禎理の肩に掛けてくれる。自分のことを、心配して、くれている。それだけで、禎理には嬉しかった。そういえば、……珮理も確かに、禎理のことを心配して、くれていた。不意にそのことを思い出し、禎理は唇を噛んだ。珮理に、もう一度逢うことができるだろうか?
「……あ」
珮理のことを思い出したついでに、後ろの籠のことも思い出す。禎理が後ろを向くと、六角公の視線も禎理の背後に動いたらしく、立ち上がって籠の方へと向かう物音が聞こえてきた。
「やはり」
溜め息と舌打ちが、同時に響く。
「噂通りだったか」
この場所は、先の天楚王の娘で現王の異母姉である貴族莞備公妃仁優の屋敷の地下室だと、六角公は禎理に教えてくれた。天楚市内で噂の「魔物の血入りワイン」を作っている首謀者が公妃だと知った六角公は、証拠を掴む為に客人を装って公妃の屋敷に潜入したという。
「だが、私には隠密行動は向いてないらしい」
説明中の六角公が自嘲気味に呟く。
「あっという間に捕まってしまったからな。まあ、公妃も私を殺すまではしない……かな。自信は無いが」
そう言いながら、六角公は再び部屋の扉に手をかけた。だが、上部に明かり取りの小窓こそ付いてはいるが、その扉には、ノブが無い。どのようにして開けるのだろう? そう思いながら、禎理は扉の方へ少しだけにじり寄った。すぐに感じたのは、籠と同じ魔法の雰囲気。これは。まさか。血が足りない頭を働かせる。確か、六角公を閉じ込めた後、扉に鍵を掛ける音は聞こえなかった。と、すると。
「模糊」
魔物が閉じ込められている籠の周りをうろうろしている模糊を呼び、手の上に乗せる。そしてその両手を、禎理は六角公の方へ差し出した。
「あの明かり取りの窓から、この子を外に出してください」
突飛な禎理の言葉に、六角公の目が一瞬だけ怪訝の念を示す。だがすぐに、六角公は何も言わずに禎理から模糊を受け取ると、明かり取りの小窓に模糊の小さな身体を乗せた。すぐに、模糊の身体が禎理の視界から消える。すぐに、扉に何かが当たる軽い音と、扉が軋む音が同時に聞こえた。
「おっ!」
僅かに開いた扉の隙間に、六角公が素早く指を差し込む。六角公がそのまま扉を引くと、扉はあっさりと、開いた。
「なるほど。内からは開かないが外からは簡単に開く仕掛けか」
六角公が、笑う。そしてすぐに六角公は禎理の方を振り向いて言った。
「逃げるぞ」
差し出された六角公の腕に、しばし躊躇う。血が足りない所為か、まだ視界がふらふらする。この状態で六角公と逃げて、足手まといにならないだろうか?
だが。
「ここにいたら確実に殺される。……私すら、殺しそうな気配だった」
冷静かつ真剣な六角公の声に、震えが走る。首筋の傷が疼いているのが、はっきりと分かった。
だから。
「はい」
頷いて、立ち上がる。目眩はまだ残っていたが、身体に巻かれた六角公のマントをぎゅっと掴むことで気力を奮い立たせると、禎理は六角公の後に付いて部屋を出た。