1-3
目を開けると、白い漆喰の天井が禎理を出迎えた。
〈……ここは?〉
何処だろう? 瞳だけをそっと動かす。どうやら禎理は、清潔なシーツが敷かれたベッドの上にいるらしい。
更に、首を動かしてみる。
「いっ……」
左首筋に走った痛みに、禎理は思わず呻いた。
「あら、やっと起きた」
涼やかな声が、耳に響く。痛みに気をつけて首を声の方に向けると、肩で切り揃えられた灰茶色の髪に縁取られた優しげな顔が、見えた。その顔に、はっと胸を突かれる。……亡き母に、そっくりなのだ。母と違うところは、ただ一つ。首から下がっている、赤い光を放つペンダントのみ。
「母者」
思わず、そう、声に出してしまう。だが、近づいてきた女性――男物の服を着ているが、顔と身体つきは女性のものだ――は、禎理の場違いな言葉に動じた様子もなく、禎理を見てにこっと微笑んだ。
「やっと、気が付いた」
そしてそのまま、禎理の灰茶色の髪を優しく撫でる女性。
「まだ熱はあるけど、顔色は良さそうね」
よくよく見ると、この女性は母よりもずっと年下だ。顔も母より丸い。どちらかと言えば、水面に映した自分の顔にそっくりだった。あるいは、……自分によく似た姉がいたら、こんな感じだっただろうか?
「あの。……ここは?」
何とか気持ちを整理し、やっとのことで、まともな言葉を吐く。
「天楚市内」
禎理の質問に、女性は簡潔に答えた。
天楚市は、『蛇神の森』の川向こう、四路川とその支流が合流する地点、その右岸に広がる平地に建てられた街である。昔から「『帝気』がある」といわれ、色々な国の首都となっている。そして現在は、東は大陸の端に手が届くところまで、西は『蛇神の森』までという、かなり大きな一帯を治める天楚国の王都として、国の政治、経済、文化の中心地となっている。
天楚市内に居るのか。不意に全身が緊張する。森よりも人間の方が怖い。禎理の心の奥底には常にその気持ちが、ある。だが。……この人は、大丈夫そうだ。何となくそう思い、禎理はすぐに身体から力を抜いた。
「森で倒れていたのを、数が見つけたの」
禎理がそう思考している間に、女性の手が、静かに禎理の左首筋に触れる。
「間に合って良かったわ」
次の瞬間。森の中で起こったことが、禎理の脳裏をまざまざと過った。自分が何に襲われたのか、今の禎理にははっきりと解って、いた。……吸血鬼、だ。
天楚市内に一年程前から出現し始めた吸血鬼の噂は、森の中にまで聞こえてきていた。天楚市に夜な夜な出没するようになったそれは、強大な魔法力を得る為に人の血を啜って生きている人魔だといわれている。これまでの犠牲者はかなりの数にのぼっており、あまりにも多大な被害に天楚国は、天楚市街の住民に注意を呼びかけ、夜間の警備を強化するとともに吸血鬼の首に賞金を掛けた。しかし吸血鬼が退治されたという知らせは未だ無い。
禎理の全身が、震える。吸血鬼に噛まれた者は、その時には助かっても、だんだんと吸血鬼と同化していき、遅かれ早かれ吸血鬼に命を奪われるという。自分も、そうなってしまうのだろうか? 恐怖が、禎理の全身を支配した。
「大丈夫さ」
女性ではない声が、禎理の横から聞こえてくる。
「毒は、吸い出してあるからな」
首筋の痛みを堪えて振り向くと、そこには、異様な影が立っていた。
まず服装からして普通の人とは違う。マントも、マントの下のチュニックも、脚絆もブーツも手袋も黒。首に巻いたネッカチーフだけが眩しいくらいに目立つ白だ。その上、普通の人間とは違う異様な空気が、その影の周りにだけ漂って、いた。男の人だということは、その影の大きさからすぐに分かる。だが、この人は絶対に『普通』ではない。禎理ははっきりとそう、感じた。その男から発せられる、敵意も。
「数!」
女性の声に、数、という名の男性は禎理を一瞬だけ見下し、そしてフンと鼻を鳴らす。次の瞬間、男性の黒い影は跡形もなく禎理の視界から消え去ってしまって、いた。
「もう、数ったら……」
女性の声に、ふと思い出す。確か自分は『彼』に助けられたと、この女性が言っていた。お礼を言うのを忘れた。禎理の心は、少し悄気た。だが。……助けてくれたのに、あの『敵意』は、一体。
「そういえば、名乗ってなかったわね」
唖然とする禎理の耳に、軽い声が響く。もう一度女性の方を向くと、女性は笑ったまま禎理の髪を撫でた。
「私の名前は珮理。あなたとは、遠い親戚、になるのかな、多分」
「え?」
珮理、と名乗った女性の言葉に、禎理の心臓が一瞬だけ止まる。『流浪の民』は、他人から蔑まれているせいか一族の連帯感が強い。たとえ薄くても血の繋がった一族を大切にしている。だから『親戚』らしい人々は全員知っているはずなのだが、禎理はこの人に覚えがなかった。が、だからと言ってこの人が嘘を言っているようには見えない。
「うーん、どうも、あなたの二百年前のご先祖様に私の妹がいるらしいのよね」
禎理の戸惑いを知ってか知らずか、珮理は歌うように言葉を続ける。
「二百年、前……?」
では、この人は一体幾つなんだろう……?
「ま、私は普通の人じゃなくなっているからね」
首を傾げて呟く禎理の声に、珮理の軽い笑い声が重なった。
「え……?」
「魔物なのよ、これでも」
そして。思いがけない言葉がさらっと珮理の口から漏れる。
「魔物……?」
その言葉に、禎理は珮理を上から下までまじまじと眺めた。だが、どこをどう見ても普通の人間と異なるところは見当たらない。禎理は再び面食らった。
「この石が、私を魔物にしているの」
胸を飾っているペンダントを摘み、少しだけ笑う珮理。その寂しそうな口調と、丸い指で摘まれた赤い光に、禎理の心は、乱れた。この人は、本当に『誰』なんだろう? 考えれば考えるほど分からなくなる。そして。……何故、彼らは僕を助けた?
「ま、今はあまり考えない方が良いでしょう」
そう言いながら、珮理の手が禎理の瞼に触れる。その、自分のとそっくりな丸い指先に触れられるとすぐに、禎理の意識は温かい闇の中へと落ちていった。