2-6
はっとして、目覚める。
〈夢、か〉
ほっと、息を吐く。それでも、癒えた筈の唇の傷が疼くのは、何故だろうか?
そっと、横を見やる。禎理の横では、七生と模糊が安らかに眠っていた。昨日の晩も、その前の夜も、七生は禎理の箱ベッドに忍んで来た。九朗が夢に出て来るのが、嬉しくも、恐ろしくもあるらしい。その気持ちは、禎理にも分かる。大切な人々が夢に出て来るのは嬉しいが、その人たちを埋葬するような、悪夢は、勘弁して欲しい。……珮理さんの、ことも、だ。
珮理のことを『慕っている』自分の気持ちに気付いたのは、何時だっただろうか? 姿形も、性格さえも禎理に似ていた珮理のことを思い出す度、禎理の心は狂おしげに歪む。それが、禎理が自身に課した『苦しみ』。この感情は、禎理が死ぬまでずっと、保持していなければならないもの。
だが。閉めた雨戸の向こうに見えた光に、禎理の思考は吹っ飛んだ。いけない。もう日が昇って随分経っている。遺跡の調査に行かなければ。働く時間は厳密に決められてはいない。だが、報酬は一日天楚金貨一枚と決まっている。報酬分の働きは、きちんとしなければ。
起きる気配を見せない七生を起こさないようにそっと箱ベッドから滑り降りると、禎理は服を着ながらマントと武器を引っ掴み、外へ飛び出した。
朝食用のパンを得る為に、三叉亭に向かう。だが、三叉亭の前に佇んでいた人物に、禎理ははっとして立ち止まった。
「久し振りだね、須臾」
多少急いではいるが、それでも、目にした人物ににこりと笑う。須臾は、天楚の貴族騎士。そして天楚でも指折りの貴族六角公の後継者でもある。『流浪の民』出身の禎理とは身分に天地ほどの差があるが、天楚市内でも屈指の武術道場で共に武術を習った仲でもある。禎理より年下だが、禎理よりよほどしっかりしている、禎理にとっては大切な人の一人。その須臾の表情が、今日は何処か曇って見える。何か心配事があるのだろうか? 貴族騎士であり、王の傍近くで仕えているはずの須臾が朝からこんな場所にいる理由は、何なのだろうか? 禎理がそこまで訝しんだ、正にその時。不意に、須臾が無言のまま禎理の肩を強く掴んで引き寄せる。須臾のその力によって、三叉亭の外壁に、禎理の身体は押し付けられる格好になった。
「しゅ、須臾?」
石の外壁に触れる背中の冷たさを感じるより先に、戸惑いの声が、口から漏れる。だが禎理の声に、須臾は黙ったまま。ただじっと、その深い色の瞳で禎理を見詰めるだけ。そして。
「生きて、いる」
全く不可解な言葉を、須臾が紡ぐ。もう一度、確かめるように禎理の肩を強く抱いてから、須臾は禎理から離れ、ふらふらとした足取りで禎理の許を去った。後に残った禎理は、首を傾げることしかできない。
〈何が、あったのだろうか?〉
掴まれた肩に、須臾の手の熱さが残っている。しばらくの間、禎理は三叉亭の前で呆然と佇んだ。
様々な戸惑いを覚えつつ、それでも精一杯急いで、調査現場に辿り着く。三日目ともなると、調査にも大分慣れてきた。
ハアハアと息を弾ませながら、禎理は先に来て色々と用意をしていたエフェスに軽く会釈をすると、壁近くに立てかけた脚立の一番上に座った。確か昨日は、天井近くの文字まで読んだ筈だ。
だが。昨日付けた筈の、読み終わった場所を示す赤チョークの印が、見えない。昨日印をつけ忘れたか? いや、確かに印は付けた。付ける時に力を入れてなかったから、消えてしまったのだろうか? いや、昨日の今日で、付けていないかのように跡形も無く印が消える筈が無い。そこまで考えて、エフェスの方を向く。禎理の視線に気付いたエフェスが、視線を禎理から逸らすのが、はっきりと見えた。
まさか、エフェスが印を消した? 疑いを、飲み下す。むやみやたらと人を疑うのは、良くない。一応、蝋板に昨日解読した文章をメモしている。それを見れば、何処まで解読したかは分かる。禎理は無理矢理気持ちを落ち着かせると、脚立から降り、部屋の端に置いておいた蝋板を手にした。だが。手にした蝋板は、どれも滑らか。文字の一つも、刻まれた形跡が無い。蝋板に刻まれた文字を消すには、幾つかの器具が必要だ。確かに、昨日蝋板にメモし、面倒だから後で消せば良いとそのまま置くだけにして帰った筈なのに。怒りを、何とか頑張って抑える。嫌がらせは、予想されていたことだ。
顔を背けたままのエフェスの横を通り、図書館側に置いておいた羊皮紙の束を掴む。羊皮紙に清書した文字は、幸いなことに消されてはいなかった。壁の文字と照合したところ、改竄部分も無い。
良かった。ほっと息を吐く。しかしながら。……このような嫌がらせが続くようなら、毎日きちんと羊皮紙に清書する所までやっておいた方が良いかもしれない。用心の為に、清書した羊皮紙は毎日金衡教授の部屋まで持って行った方が良いだろう。もう一度、睨みつけるようにエフェスを見て、禎理はそう心に決めた。




