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枯れかけた下草を踏みしだきながら、ゆっくりと森の奥へと向かって行く。時々下草をそっとかきわけてみたり、不自然にぽっかり空いている小さな空き地を枝でつついてみたりを繰り返しながら、禎理はひたすらゆっくりと、森の中を歩いた。普通の人間なら絶対に躊躇するだろう。実際、魔物捕りの罠の殆どは森の入り口近くに仕掛けられている。だが、禎理は森の奥に入っても平気だった。
禎理は、『流浪の民』の出身である。半年程前、流行病で一族の者をみんな亡くしてから、ずっと独り、この森で暮らしていた。
大陸中を旅し、芸能で生計を立てる一族、それが『流浪の民』。その生活形態から、街中では迫害されることも多く、芸能や予知などといった一族が持つ『能力』が必要とされるとき以外は大抵この森のように人気が無いところに住んでいる。だから禎理は、森に棲む大抵の魔物や妖精には驚かなかったし、魔物より人間のほうがよっぽど怖いと思っている。
今でも。
〈また、見てる……〉
誰かの視線が、ずっと禎理を見張っているような気が、する。
この視線は、魔物や妖精のものではない。禎理の直感がそう告げていた。第一、魔物や妖精に禎理を見張る理由が無いし、禎理の方にも彼らに敵意を持たれる理由が無い。いたずらを仕掛けようと思っているのなら別だが、彼らは本来、こちらから仕掛けてこない限り人間を襲わないものなのだ。では、この視線は何なのだろう。悪意は感じないが、じとっとした視線は禎理の気持ちを掻き乱す。森は自分の家のようなものなのに、この胸騒ぎは何なのだろう。禎理はとても不安になった。
魔物を欲しがっている者は大抵権力者である。彼らは欲しい物の為なら何でもするらしい。それに禎理は彼らの邪魔をしているも同然なのだ。と、すると……。
〈もしかして……〉
誰か、魔物を欲しがっている者かその手下かが、罠を壊して回っている者の噂を聞きつけ、禎理を見張っているのかもしれない。今はまだ手を出さないが、そのうちきっと、大勢で襲い掛かってくるつもりなのだろう。そう思うと、不安はいやがうえにも増してくる。『彼ら』に捕まるとどうなるか。禎理はそれを伝聞形でしか知らない。だが、それでも、恐ろしいことに変わりはない。
その恐ろしさが全身に行き渡り、足が震える。とうとう、禎理はその場に立ち尽くしてしまった。
と、その時。
「うわっ!」
突然目の前に飛び出してきた物体に、禎理は思わず大声を上げた。
手の平に乗るくらいの大きさのそれは、禎理の驚きには一向に構わずその肩に飛び乗ると、禎理の首筋をぺろりと舐めた。
「……何だ、模糊か」
禎理はほっと胸を撫で下ろすと、その黄色く丸い生き物を肩から右手へと移し、左手でそっと撫でた。
模糊は、もともとこの森に住んでいた『ダルマウサギ』という種類の魔物である。罠に引っかかっているところを助けたのが、禎理と模糊との出会い。それ以来、模糊は何故か禎理に懐き、今では禎理と行動を共にしている。垂れた長い耳を振り動かし、手の平サイズの小さい身体を精一杯動かして飛び跳ねるさまは、見ていて飽きない。禎理にとっても良い「相棒」だった。
「おなか、すいたのか、模糊?」
禎理の問いに、模糊が無い首を振って頷く。すばしっこくて、そう簡単には捕まえることができないダルマウサギの欠点は『悪食』である。とにかく何でも口に入れてしまうのだ。だから、罠に掛かっている魔物の中でも一番数が多いのがこのダルマウサギ族だというのもある意味納得がいく。
「じゃあ、もうそろそろお弁当にしようか」
恐ろしい気持ちなどきれいさっぱり忘れて、禎理は傍の木陰に腰を下ろし、肩から提げた布鞄から木の実を擂り潰して作ったパンを取り出した。
と。
〈……なっ!〉
又、視線を感じる。禎理は弾かれたように立ち上がった。
大急ぎで辺りを見回す。しかしやはり、禎理以外の誰の存在も確認できない。だが、先程よりもっと近くで見られているような気がするのは確かだ。禎理は動悸を抑えるように再びしゃがみこむと、太い幹を盾にして視線を感じた先をそっと窺った。いた。影のような人が一人すっと木の陰に隠れるのを禎理はその目ではっきりと見た。しかもその影は、今禎理がいる所からかなり近いところにいる。禎理の全身が総毛立った。
確かに、僕を狙っている。
〈どう、しよう……〉
こうなったら。禎理はさっと立ち上がると、森の奥目指して猛然と走り逃げた。ただただ、怖い。その感情だけが、禎理の足を動かす。
〈も、もう、いいかな……〉
息が続かなくなったところで、足を止める。濃い森の影が、禎理の心を鎮めた。このくらい奥へ入れば、普通の人間は追いかけては来ないだろう。
だが。禎理がほっと胸を撫で下ろすより早く。小柄な身体が、不意に後ろへ引っ張られる。
「うわ……」
漏れかけた悲鳴は、口を抑えた大きな手に遮られた。
そして、次の瞬間。首筋から左肩に走った痛みに、思わず呻く。後ろから禎理を抱きすくめた影が、禎理の左首筋を噛んだのだ。そのことに気付くまで数瞬、掛かった。
何かを啜る音が、耳元で響く。何もできないうちに全身から力が抜け、視界がゆっくりとぼやけていった。
〈僕は、このまま……〉
絶望が、禎理の心を噛んだ、次の瞬間。不意に、支えが無くなる。慣性のままに、禎理の身体は地面へと沈んでいった。
「つっ……!」
低い声が、耳に響く。同時に禎理の視界に入ってきたのは、黄色い塊。
「模糊」
乾いた呟きが、口から漏れる。ありがとう。そう呟く間に、幾つもの足音が禎理の耳を通り過ぎた。
次は、誰? 何が、起こっている? しかし、それを確かめる前に、禎理の視界は闇一色に塗り潰された。