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……誰かが、見ている。何となくそんな気がして、禎理は背中の震えと共に振り向いた。
しかし、禎理の瞳に映るのは、いつも通りの森の影。葉を落とした広葉樹やすっくと立った針葉樹などのごちゃごちゃと絡まった木々の太い幹や、秋の風にさらされてさらさらと蠢く枯れかけの下草ばかり。自分以外の人の気配などはこれっぽっちも、ない。
〈ま、当たり前か〉
再び前を向き、禎理はほっと息を吐いた。
〈こんなところに入り込むような物好き、そうはいないよね〉
時折、森の中を通り抜ける冷たい風が、もうすぐ十三になるにしては小柄な禎理の身体から情け容赦なくその体温を奪ってゆく。不意の強い風が伸ばしっ放しの灰茶色の髪をめちゃくちゃに吹き飛ばし、禎理は思わず舌を打った。
しかしながら。冷たい風も暗い森も、禎理にとってはほっとする『場所』。
ここはマース大陸の北東、四路川の左岸に広がる通称『蛇神の森』。その名の通り半人半蛇の土地女神毘王が支配し、魔界にも繋がっているという噂もあるこの森には、世にも恐ろしい魔物や不思議な力で人を惑わす妖精などが棲んでおり、普通の神経の持ち主なら近寄ることさえしない場所である。今禎理が歩いている森の端の方でも、もう秋月も終わりに近いというのに木の枝や蔓草などが複雑に絡み合い、そう簡単には進めなくなっている。こんな森に不用意に入り込んでしまったら、道も無く、冬でも葉を落とした太い枝が日光を遮るほどうっそうと茂った木々の間で迷い、出られなくなってしまうがオチだろう。禎理はうんと一人頷くと、森の奥に向かって歩き出した。
その、目的は。
「……あった」
太い木の根元の、一見では普通の蔓草に見えるロープを、静かに引っ張る。軽い音と共に、蔓草にしてはピンと張り詰めていた細い茶色のロープは禎理の手の中でくたっとしなった。そのロープの先は丸く縛られていて、そして鋭い針が幾本も植え付けられていた。小さい魔物なら、すぐに絡めとられ身動きが取れなくなってしまうだろう。針に毒が仕込んであれば、大きい魔物でもどうなることか。
「危ない危ない」
禎理はそっと、肩に掛けていた鞄にそのロープをしまった。
森に仕掛けられた魔物用の罠を壊す。それが、禎理がこの森をたった独りでうろついている、理由。
マース大陸共通暦一二九七年。共通暦一〇九三年に大陸全土で突然起きた『魔法革命』により、この世界に存在した魔力、法力、超能力の『三大魔法力』のうち、一番強力であった『魔力』が消え去って二〇〇年余り、人々は魔力に変わる新しい『魔法力』を求め模索していた。ある者は信仰により微弱だった法力を高め、またある者は自身の潜在的な超能力を高めようと努力した。しかし、この二つの方法には多年の努力や自己研鑽が必要である。そこで、というのも変だが、人々は一番手っ取り早く魔力と同等の力を得る方法をこれまでに色々と考え出してきた。その一つが、魔物の血を飲み、その中にある魔力要素を自分のものにしようとする方法、だった。
マース大陸の魔力とは本来、人間の内に存在する『魔力要素』と大陸を流れる『魔力線』とを共鳴させて得る『力』のことをいう。『魔法革命』により魔力線が微弱になってしまったのならば、自分自身の魔力要素を濃くすれば魔力線と共鳴することができ、再び『魔力』を使えるようになるのではないだろうか? そう考えた者がいた。魔力要素を濃くするためにはどうすれば良いか? 魔力要素は主に人間と魔物の血に含まれている。とすると、魔物の血を飲んで魔力要素を高めるのが一番手っ取り早い。この『発見』はたちまち大陸中に広がり、特に上流階級の者の間で魔物の血を飲むことが流行した。
しかし、この流行には大量の魔物の犠牲を伴う。しかも需要は多いが供給は少ない。よっていきおい、魔物で一儲けしようと企む人々が多くなる。彼らはこぞって魔物がいるといわれる場所に罠を仕掛け、捕まえ易く扱い易い小さく弱い魔物を捕らえ、殺してその血を抜き取り、『力』を欲しがっている者、特に金持ちに売りつけていた。
そのような不届き者が森に仕掛けた罠を壊す。それが、禎理の目的。