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「神様、酷いですっ」
そう言って泣き出したのはとある天使。
天使は小さな黒髪の女の子を抱きしめ、神に訴えている。
「こんなっ、こんな小さな子どもを攫うだなんてっ。鬼!悪魔!人でなしっ!」
「いや、ワシは神じゃし」
立派な体格に真っ白な衣装を纏い、頭に生える分まで顎に回された真っ白な髭。肌が白い事も相まって神はその目の青さ以外は頭のてっぺんからつま先まで真っ白だ。立っている場所が雲の上ということで、神が目を瞑ってしまったら周囲と同化してしまったかもしれない。
「可哀想に、お嬢ちゃん。こんな人でなしのせいで酷い目に遭って」
そう言って、天使はまた小さな子どもを掻き抱いて泣く。
「人でなしってそりゃそうじゃろ。人じゃないし」
抱きしめられた幼女は、自分が何故ここにいるのか、目の前の見知らぬ二人は誰なのかも分かっていないが、自分を抱きしめている羽の生えた金髪の青年が流す涙を自分の袖でそっと拭った。
「おにーさん、だいじょうぶ?いたいの?かなしいの?」
その優しさは、すでに決壊していた天使の涙腺を更に壊す事となった。
「なんていい子なんだぁぁぁぁ。こんな狼藉者にかどわかされても優しさを忘れないなんて、まるで天使の様だっ!いや、俺も天使だけどっ!俺よりずっと天使!。神様!この子を早く元の場所へ!」
「できる訳ないじゃろ」
「何で!?この極悪人!鬼畜!凶悪犯罪者!」
滂沱の涙を流しつつ訴える天使に神は長く嘆息して言った。
「元の所ではもう死んでいるからの」
「えっ………」
「みーちゃん、しんじゃったの?」
死というものが分かっているかどうかも覚束ない幼女はコテンと首を傾げる。それを見た天使は更に号泣度合いを激しくした。
こんな小さな子が死んじゃっただなんてぇ!と滝のような涙を流す天使を放置して、神様は幼女に声をかける。
「お嬢ちゃんは、みーちゃんっていうのかな?」
「はいっ。さかした みいな 4さいですっ。ひかりようちえんのゆりぐみさんですっ」
天使に抱きつかれたまま右手を上げて元気よく答えたさあやは、やはり死の概念が良く分かっていない様だ。
「ミーナちゃん。ちゃんとお名前を言えていい子じゃのう」
「ありがとう、おじいちゃんっ」
神に頭を撫でられ褒められて、ミーナは嬉しそうに、それでいて得意げに笑った。神の瞳はとても優しいが、その中に浮かんでいる悲しみや憐れみといった色を幼いミーナには見て取ることは出来ない。
まだ泣き続けている天使を放って神はミーナに話しかける。自分に抱きついて泣いている天使を気にしつつも、きちんと返事をしているミーナだったが、幼い子供なので体力も尽きかけて生あくびをしたり目を擦ったりし始めた。
「お昼寝しようかの?雲のベッドはフカフカで気持ちいいぞ?」
「くものべっど!」
あまりにも現実感の無い世界にいる故にか、それとも幼い子供というのは総じてそういうものなのだろうか。
ミーナは自分に抱きついていた天使から優しく身を引くと、神が手をかざしただけで盛り上がった見慣れぬベッドを拒絶することも警戒することもなく、飛び込むように乗った。
手触りを楽しんだり、ごろごろと体を回転させたりしていたミーナだが、それほど経たぬうちに眠りについてしまった。
「この状況で大の字になって寝るとは大物じゃのう。……ティート、そなたをこの娘の守護天使に任命する」
ミーナの寝息を確かめてから、神は天使ティートに言った。
「まだ泣いておるのか、泣き虫ティート。そなたは上級天使の中でも五指に入る力を持ちながら、何故そんなにも涙腺が緩いのだ」
「放っておいてください。涙腺と力とは関係ないんですっ」
「ティート、落ち着け。あの子どもはジアスの所から――」
「人身売買!?」
ティートは涙を流したまま頬に手を当て口を大きく開けて”絶望”とでも名付けたいような表情をした。
「ジアスさまは固くて融通が利かないけど清廉潔白な方だと思っていたのにっ」
「ジアスはってなんじゃい、ジアスはって。ティート、先だっての界争を覚えておるじゃろ?」
「はい。30年ほど前でしたね」
文句を言っておいて突然に話題を変えた神の問いに、それでもティートは真面目に返事をした。
「ですが、うちもジアスさまの所も関係ないでしょう?」
神は界の数だけいる。当たり障りなく他の神と付き合う神もいれば、気の合う神同士で交流することもある。中には諍いを起こし対立する神々もいて、30年前に起こった界争は対立の行き過ぎから始まったものだったが、この界は対立したどちらの神とも左程の交流は無かったのでティートはそう言った。
「とばっちりの貰い事故じゃの」
片方の神が放った攻撃がジアス神の界を襲い、防御を突き抜けてこの界まで達したと神は言った。ジアス神の界にも多少の影響はあったが、被害といえばこちらの界の方が酷いと神はティートに語る。
「ジアスの界にあった成分がこちらの界に影響を及ぼした。あちらでは何の問題も無いのに、こちらでは瘴気を発するものになってしまったのじゃ。それが発覚したのはつい最近じゃが、瘴気は30年かけてじわじわとワシの管理する人界に影響を及ぼしておる。その瘴気を吸収して無害化してもらうために、ジアス界の人間を回してもろうた」
原因となる物質はすでに処理済みであるが、大気に交じってしまった瘴気を消す術がないと言う。
「あんな子どもに何をさせるつもりですかっ!」
「なにもさせんよ。ただこの界に居てくれればそれでよい」
神は語る。
ジアス界の人間の死の定めが近い者の中で、病ではなく不慮の事故による死亡者であること。
その事故が無ければ、長命であろうと予想されること。
なるべく年若いものである事。
この三点から選ばれたのが、ミーナだという。彼女は死の寸前で人形とすり替えられてこの界に送られた。元の世界では既に亡くなったとされている。
ミーナに限らずジアス界のものならば、この界で発生した瘴気を取り込んで浄化することが出来る。何故なら、それは元々ジアス界に生きる者にとっては有害では無いものだから。ただこの界で生きているだけで、世界を救う事となるのだ。
年若いものが良いとされたのは、30年かけて発生した瘴気の浄化にどれだけ時間がかかるのか予想不可能であるからだ。5年で済むかもしれない。10年かかるかもしれない。瘴気発生から今までと同じ時間である30年でも浄化しきれないかもしれない。
どちらの界も、いわばとばっちりで受けた被害だ。互いに融通し合い健常な状態に戻そうという話になったが、それでも己の界に住まう者を輪廻から外す事はなるべく避けたいとジアス神は言ったという。
もしも浄化に必要な期間が長期に及ぶ可能性を考えれば、交代サイクルが短いのは宜しくない。
「まさか、ここまで幼い子供を送ってくるとは思わなんだがの」
ミーナがこの界に必要な理由を説明した神だが、話し終えたときにティートから発せられた怒気に思わず身を引いた。
「浄化装置、ですか」
先ほどまで号泣していたとは思えぬほど、ティートの表情は厳めしい。治癒の力で赤かった目も鼻も通常通りに戻っており、冷たい目で神をねめつけている。
「ま……まぁ、そういう事じゃの」
「有無を言わせずこんな小さな子どもを輪廻の輪から外した、と」
「仕方なかろう。ならばどうせよと言うのじゃ。この界に滅びよとでも言うのか」
「界争を起こした者どもに償わせては?」
「浄化が適うのはジアス界の者じゃ。界争を起こした奴らのリソースはこちらにも配分してもろうた」
それに、元凶の神たちは既に更迭されて自我の分解処分をされていると、神は苦い顔で言った。
「神様がどうにかなさっては?」
「ワシがやると界が壊れてしまうじゃろ」
神の力は強大。それ故に直接力を行使すると被害が大きくなる恐れがある。その為、人界に何か起こった時には人に力を与えて問題解決を図る傾向にあった。
「死の定めが近い者のうち、ある程度年がいって分別の付いた者に事情を話し理解を得て協力してもらっては?」
輪廻から外れることを厭うものは多かろうが、肯って力を貸してくれるものを見つけることは可能だろうとティートは言う。
「それでは、浄化が長期に及んだ場合に、短い周期でジアス界の者を連れてこなくてはならぬ」
「それの何がいけないんですか。何もわからぬ幼い子を問答無用で界渡りさせるくらいなら、ジアスさまもあなたも手間を惜しむべきではない。……とは言っても、もうすでにこの子はこの界に連れてこられてしまった。いまさらあなたやジアスさまを責めても何も変わらないんでしょう?ならば、俺に出来ることはこの子を守る事だけだ」
雲のベッドですやすやと眠る子どもは、何の夢を見ているのか時折笑い声を立てていて、ティートはその健やかさにいっそ哀れを覚えてしまう。