十年の眠り姫 王弟殿下の籠の鳥
「ロゼール様、本当にありがとうございました」
令嬢は、傍らに立つ婚約者と共に頭を下げる。
「どうか、お幸せにね」
慈愛の笑みを浮かべる公爵令嬢ロゼール。
国立学院の高等科、今夜はその卒業パーティだ。
「ロゼール様、お世話になりました。」
「ロゼール様、わたし、幸せです。」
「ロゼール様、結婚式にご招待してもよろしいですか?」
「ロゼール様!」
20組を数える、幸福そうな男女が次々とロゼールに頭を下げる。
それとなく陰で見守る私は感動してしまう。
これだけ感謝を受ける行いをした彼女は、正に女神とも言えよう。
二年前、初めてロゼールが参加した卒業パーティでは、とんでもない事件が起きた。
『バイオレット! 君との婚約を解消する!』
突然、会場で大声を出した、某令息。
その婚約者バイオレット嬢はロゼールの大切な従姉だった。
浮気した令息の暴挙。その後、彼は社会的責任を取らされた。
だが、結婚間近で婚約解消されたバイオレット嬢は、悪く言えば傷物になったも同然。同情はされても、誰も守ってはくれない。
ロゼールはバイオレット嬢が肩身の狭い思いをしないように、彼女と釣り合う新たな婚約者を探さねば、と意気込んだ。
まだまだ未熟なロゼールの憤慨は暴走しがち。
そんな彼女を、家族がフォローした。
素晴らしいご家族である。
バイオレット嬢は良縁を得て、今では一児の母だ。
その後も学院内で、婚約についての悩みを打ち明けてきた友人の相談に乗ったり、婚約者の愚行に泣く令嬢の現状を目にしたりしたロゼール。
それらを、屋敷の離れに住む、祖父母に相談した。
なんとか力になりたいというロゼールに彼らは協力し、知恵を貸した。
だから、自分の手柄ではない、とロゼールは考えている。
現役時代、王宮で要職についていた彼女の祖父は、自分の関与は公にするな、と言うので、こうなっているだけだ、と。
彼女が動いたからこそ、事態を変えることが出来たはずだ。
なんとも謙虚な態度である。
さすが、私のロゼールだ!
人に囲まれ過ぎて疲れたのか、ロゼールは、庭に通じるテラスに出た。
夜会と言うには早めの時間に始まったパーティ。
黄昏時の空に宵の明星が見えていた。
テラスの石段から芝生に下りる彼女。
まだ明るさがある、と油断しているようだ。危なっかしい。
「おやあ? これはこれは、ロゼール様じゃないですか!」
ほら、言わんこっちゃない。
顔見知りの卒業生男子が数人、植え込みの陰で酒を飲んでいたようだ。
「あんたのせいで、俺は僻地に飛ばされるんだぜぇ。
どうしてくれんのよ。」
一人が、立ち上がり、フラフラとロゼールに向かっていく。
彼は、ガラの悪い平民とつるんで失敗し、後継ぎの座を下ろされたのだ。
婚約解消となった相手女性のために骨を折ったのはロゼールだったが、彼の行く末は自業自得。
まったくの八つ当たりでしかない。
近づく男から離れようと彼女は二、三歩後ろに下がる。
まずいな、ヒールをとられて後ろに倒れかけているぞ。
「大丈夫か?」
私は駆け寄って、彼女を支えた。
「…王弟殿下。」
国王代理でパーティに出席した私の姿を認めて、男子学生たちは酔いも醒めたようだ。
「…し、失礼いたします。」
ちゃんと酒瓶も回収して、そそくさと立ち去っていく。
今日のところは見逃してやろう。
私も忙しいからな。
「ありがとうございました。」
「どういたしまして。」
「…あ、あの?」
「ん? どうした?」
放してやらないので、困っているな。
「ヒールが折れているかもしれない。」と告げた。
折れている、ではない。折れているかもしれない、だ。
嘘は言っていない。
「あら、困りましたわ。」
時に思い切りのいい彼女だ。靴を脱いで、裸足で控室に向かいそうだ。
「お姫様、私に恥をかかせないで。」
優しく囁いて、横抱きにする。
テラスには戻らず、建物の外を回っていく。
「こっちからなら、会場を通らずに控室に行けるんだ。」
今日の会場は迎賓館。
私には、馴染んだ場所だ。
「若かりし頃の素行が悪くて、建物の構造を把握している、とか思ってる?」
彼女は私の顔を見上げる。
「殿下は、まだお若いではありませんか。」
そう言って、顔をそらした。
揶揄ってごめんね。何か言っていないと変になりそう。
出会った時から変わらない。
まっすぐで可愛い人だ。
初めてロゼールに会ったのは、王宮で開かれた貴族子女のためのお茶会だった。
ロゼールは8歳。
余所行きドレスを着慣れないのか、なんだか動きがぎこちなかった。
公爵令嬢であるロゼールは、身分差別で嫌な思いをすることはないだろう。
暢気に庭園を歩き回っていた。
だが、子供の茶会でも、貴族は貴族。
大人の目が届きにくい場所で、それは起こった。
「そんなみすぼらしいドレスで、よく王城に来るわね!」
「……」
リボンがたくさん付いた派手なドレスの令嬢が、シンプルなドレスの令嬢に突っかかっていた。
シンプル令嬢は、身分の高そうな相手に口答えするな、という最低限の注意は受けているようだ。
悔しそうだが、我慢している。
気付いた私は、どうすればうまく仲裁できるか考えていた。
だが、ロゼールのほうが早かった。
「貴女のドレス、とても素敵。
裾に使われているレース、ヴィンテージで今すごく人気がありますわ。」
母君に連れられて行ったブティックでの、聞きかじりだそうだ。
言われたシンプルドレス令嬢も、リボンドレス令嬢とその友人たちも、ポカンとしていた。
私の出番だった。
「ご令嬢方、そろそろ、シェフご自慢のケーキが出ますよ。」
そう伝えれば、リボンドレスの一団は、いそいそとテーブルのほうへ移動していく。
「勇敢な姫君だね。」
私は跪き、ロゼールの手を取ると軽く口付けた。
頬を赤く染めた彼女は、返事もできない様子。
あまりに可愛くて、それ以上そこにいたら、攫ってしまいそうだった。
「君たちも、早くテーブルにおいで。」
あちこちに散らばった子供たちを、集める役目がある。
私はそのまま、立ち去った。
結局、ロゼールはケーキを食べ損ねたようだ。
だが、シンプルドレスのご令嬢、伯爵令嬢のソフィーと友達になったらしい。
お茶会の翌日、公爵家に届け物をした。
『勇敢な姫君へ』とカードを添え、彼女が食べ損ねたケーキを贈った。
しばらく後、祖父母の付き添いで、ロゼールは王城にお礼に来てくれた。
当時は前王の時代。私が王子であることに、とても驚いているようだった。
前公爵である彼女の祖父とは、親しくさせてもらっていた。
前公爵を訪ねるふりをして、時々、ケーキ持参でロゼールの様子を見に行った。
当時18歳の私だったが、これが初恋だった。
腕の中で黙ったままの彼女に声をかける。
「ロゼール? どうかした?」
「な、なんでもありません。」
「そろそろ、お開きの時間だ。特に用がなければ、このまま送るよ。」
「殿下は、お忙しいのでは?」
「いや、実は、公爵家に用があるんだ。」
車寄せで、横抱きのまま馬車に乗せる。
まだ帰る人は少なく、それほど目立ってはいない。
そっと座席に座らせると、少しホッとした顔をするロゼール。
残念そうな顔は、してくれなかった。
「ロゼール? 疲れてる?」
走り出した馬車の中で、再び黙ってしまった彼女。
「すみません。今日、ソフィーとした会話を思い出していて。」
「どんな話?」
「…要約すると、わたしがモテない、という話です。」
「ん? 何か聞き捨てならないな。」
「だって、婚約の打診一つ、今まで聞いたことがないのですもの。」
「そう、なんだ。」
私はいたたまれず目をそらす。
「なんとなく、わかるんです。
他の方の婚約話に、出しゃばって首を突っ込んだりして。
出過ぎた女だとか、煩わしい女だとか、思われても仕方ないかな、と。」
「出しゃばり、ではないだろう。
見過ごせない性分なだけで、なかなか勇敢な行動だと思うよ。
それに、あの、8歳のお茶会の時だって、意地悪な令嬢をとっちめたりはしなかっただろう。」
「覚えておいででしたか。」
「忘れられないよ。君との出会いだ。
あれ以上、勇敢な姫君に、私はいまだに会えていない。」
「殿下は大人でいらっしゃるから、褒めてくださいますけど、
同年代の男性は、勇敢な女性を煙たがるかも。」
「同年代に、モテたいのかい?」
私は大人げなくも不機嫌になった。
「そういえば。」
「ん?」
「友人に言われたことがあります。
良さげな男性をみんな縁結びしちゃって、自分の相手がいなくなるかもよ、って。」
今度は複雑な気分だ。
「わたし、けっこう、崖っぷち?」
「…ならば、私となら似合いかもな。」
「え?」
「28歳、独身だ。私も、モテない。」
「嘘ですわ。」
「何が?」
「殿下がモテないはずがありませんもの。」
「なぜ?」
「なぜって…お姿も美しいですし、女性の扱いもお優しい。」
「誰にでも、ってわけじゃない…」
「え?」
「いや、続けて?」
「時々、子供みたいにお可愛らしいこともありますし。」
ついさっきからも百面相してるしな。
君の前だからだけど。
「大人になったって、子供の時の自分がいなくなるわけじゃないからな。」
「確かに、そうですわね。」
大人になったら出さない部分はあるけれど、無くなったわけではないだろう。
十年前に出会った初恋だって、ずっと心の中にあるみたいに。
馬車が止まった。公爵邸に着いたようだ。
公爵家の馬車は先触れに出し、王家の馬車で来たのだ。
公爵夫妻に出迎えられた。
「王弟殿下、よくいらっしゃいました。」
「出迎え、ありがとう。突然の訪問ですまないね。」
「いえ、本当にいらっしゃるとは。」
先触れを出したのに、公爵は何を言っているのだろう。
「お食事、ご一緒してくださいますわね。
今夜は、ロゼールの卒業祝いですし。」
「ありがとう、公爵夫人。お邪魔でなければ、是非。」
ロゼールは、メイドに別の靴を持ってきてもらい、馬車を降りた。
幸いにも、ヒールは折れていなかったが、ぐらついていた。
着替えて来たロゼールを、自分の隣に座らせる。
居間にはご家族が勢ぞろいしている。
ロゼールの兄、アランが怪訝顔をしていた。
公爵が口を開く。
「それで、お話というのは?」
「ご息女、ロゼール嬢を妻に迎えたい。」
私は、サクッと本題に入った。
驚いて言葉も出ない様子のロゼールを見て、彼女の祖父である前公爵が言う。
「殿下、まだ口説いてなかったんですか!」
「無理だ! 会場からここまで、馬車で30分弱だぞ。」
「本当に、卒業パーティ終了まで待ったんですか?」
前公爵は大いに呆れた、という顔だ。
「当たり前だ、約束だからな。」
私は憮然とする。
「ロゼールが困惑していますわよ。」
前公爵夫人の発言に、ロゼールはこくこくと頷く。
「そうですね、最初から説明しましょう。」
私は語り始めた。
「初めて会ったとき、まさに、一目惚れだった。
小さいながら、なんと凛として勇敢な令嬢かと……」
「ちょっと、お待ちください。それはいつの話ですか?」
ロゼールと同じく、初耳らしいアランが質問してきた。
「ロゼール嬢8歳のお茶会の時だ。私は18歳だった。
ケーキのお礼に、王宮を訪ねてくれた時には二目惚れだ。」
「その美貌で、言い寄る男女数知れずと言われながら、浮いた噂一つない殿下は……実はアレだったんですか!?」
「違う! 私も、万一のことがあってはと、その筋の権威に相談したのだ。
結果は、シロだった。」
アランは納得いかない顔をしながらも、とりあえず口をつぐんだ。
「安心した私は、善は急げと、さっそく公爵にロゼール嬢との婚約を申し込んだ。」
「それで?」恐る恐るアランが訊く。
「きっぱり、断られた。」
ロゼールが18歳になった今も、公爵は嫁に出したくなさそうだ。
ましてや当時8歳。いくら王族からの打診でも、簡単には頷かないだろう。
「もちろん、そこで諦めるくらいなら、申し込んだりしない。
公爵より気心の知れた、前公爵に相談したのだ。
その結果が、この協定だ。」
ロゼールとアランの前に、一枚の書面を差し出す。
協定の内容は概ね、こうだ。
公爵令嬢ロゼールに婚約を打診する場合は、彼女が18歳になるまで、また学生であれば卒業するまで待つこと。
この協定に参加しない者は、ロゼールに婚約を申し込む権利を有しないこと。
王弟である私は特例として、最初に申し込む権利を持つこと。
私が受け入れられなかった場合、他の者に婚約の打診をする機会が与えられること。
「今日中に、私が結果を出せなければ、明日は朝から、公爵邸の前は馬車の行列だ。」
「協定書の提出は50枚。1件も途中辞退はなかったよ。」
公爵はうんざりした顔をしていた。
「王弟殿下の件を保留にして引き延ばせば、時間が稼げるのでは?」
アランが言った。
「君は甘いな。
婚約を申し込めなくても、少しでも機会を得ようと有象無象が押し寄せるに決まっている。
現に、学院でも、ロゼールに近づこうとする輩が多くて大変だったんだ。」
「なぜ、学院内にいなかったはずの殿下がご存じなのでしょう?」
アランはかなり、引き気味だ。
「学生の中で諜報系の官吏を志す者を雇って、秘密裏に調査させた。
もちろん、いい働きをした者には、私が推薦状を書いた。
牽制しても引かない者には、暗部を志す者に…」
「ほほほほほほ…、若いって素敵ねえ。」
前公爵夫人の笑い声が、私の言葉を遮る。
「なんて情熱的なのでしょう。」
公爵夫人の言葉が続く。
「公平性を期すため、私もロゼール嬢に会うのは、前公爵の立会いの下だけしか許されなかったのに、他の者がほいほい近づくのを放っておけるわけがない!」
たいていの貴族は勘違いしている。
王弟と言えば、自分で言うのもなんだが、美貌の人と言われる以外に取り立てて成果が語られることはない。
それを、お飾り的な仕事をしているんだろう、と思っている者がほとんどだ。
語られない仕事を、得意にしているとしたら……。
「どうかしたのか?」
私はアランを見つめた。
「…あ、いえ、その…お話をうかがっていると、参考になることばかりで、勉強させていただいておりました。」
「いい心がけだ。」
心なしか彼の顔色が悪いかもしれない。
つまり、私について理解を深めてくれたようだ。
そういえば、さっきからロゼールが発言していない。
彼女に視線が集まった。
「ロゼール?」
夢から覚めたように、ロゼールが顔を上げ、私の顔を見つめた。
「それでは、あの8歳のお茶会で、殿下がわたしの前で跪かれたのは…」
「プロポーズだ。身体が心のままに動いてしまった。」
ロゼールが目を見開き、その後、泣きそうな顔になる。
「わたしも、あの時、殿下が好きになりました。
…十年も、返事をせずにお待たせしていたのですね。」
「君を想って待つのなら、幸福な時間だよ。」
「殿下…わたしは…」
「何か不安があるのかな?」
「王子様は王女様と結ばれるのだと、子供心に思って、無意識に恋心を封じていたのかもしれません。」
あああ、なんて、なんて可愛いことを言うんだろう。
「そのことなら、あと一年もすれば第二王子も成人して、私は王族の籍を抜けて公爵になる。」
「殿下」
「もう、不安はないかい?」
「はい。わたしは殿下をお慕いしております。」
「ロゼール」
前公爵夫人がパシリと大きな音を立てて、扇子を閉じた。
公爵に、ここで突っ込みなさい、という合図だろう。
「くっ…ロゼールの気持ちがかたまっているのなら、我が家に異存はございません。
ありがたく、お申し込みをお受けいたします。」
「ありがとう、公爵。皆さま。」
執事長が、頃合いを見計らって声をかけてくる。
「王弟殿下にお届け物がございます。」
「ああ、卒業祝いのケーキだ。」言いながら、ロゼールに甘く微笑みかける。
「あの時、届けたものを再現してもらったんだ。」
「殿下。うれしいですわ。」
満面の笑みで応えるロゼール。
「…北方の王領に隣り合う、小さな領地をもらってあるんだ。
このシェフが王宮の厨房を引退したいというので、その館でのんびり働いてもらう予定だ。」
「まあ、そうですの。」
卒業祝いのディナーは、婚約の前祝を兼ねて、華やいでいた。
「よろしければ、公爵家の皆さまで、避暑にいらっしゃいませんか?」
公爵夫人が少し考えて答える。
「わたしたちは仕事があるので遠慮しますが、お義父様とお義母様はいかがです?」
「そうだな。そろそろ暑くなりそうだし、避暑地は魅力的だな。」
「そうですわね、あなた。お邪魔させていただきましょうか。」
ロゼールが行くのは、決定事項だ。
付き添いで誰が行くのかを確認しただけだった。
「では、お三人でいらっしゃると伝えておきます。」
アランは、人数に含まれなかったことを安堵したようだ。
「サマードレスが必要ね。明日はブティックに行きましょう。」
と、公爵夫人は自分が行くかのように楽し気だ。
「お義母様も、何着か必要でしょう。」
「あるものを少し手直しすればいいかと思ってたけど、そうね、見に行ってみようかしら。」
「ええ、是非。せっかくですもの、カフェで新作スイーツを食べましょう。
女子会よ。」
女三人で笑いあう。
公爵家に嫁姑の諍いはないようだ。
今夜は公爵家に泊めてもらうことにした私は食事の後、男性陣と共に、談話室でグラスを傾けていた。
「…明日の協定参加者向けに、書面を用意したほうがいいでしょう。」
そうすれば口頭で断るよりもわかりやすく、誤解を生みにくい。
「印刷のほうは、私が準備しますので、原稿をご用意いただけますか?」
そう、公爵を促した。
公爵家の執事が、傍らの小さな机に紙とペンを持って待ち受ける。
公爵が発言したものを、執事が記録していく。
型通りの書面だ。それほど時間はかからない。
「私が、少々補足させていただいても、かまいませんか?」
「もちろんです。殿下は当事者であられますから。」
「ありがとうございます。」
数か所の手直しを執事に書き込ませる。
もう一度、公爵の確認を経て、原稿は完成した。
「それを、印刷所へ?」尋ねたアランに、私はニヤリと笑った。
「もう、出来上がっていますよ。」
直ぐに部屋の扉が開かれ、印刷された紙面が机に置かれた。
文言は、原稿と寸分違わない。
魔法のような所業だが、なんのことはない、すでに印刷済みだっただけだ。
絶句するアラン。
「これは、問題ないのですか?」
と、やっと発言する。
「どう思われますか、前公爵殿。」
「問題ないな。公爵が原稿を作った後、印刷物が用意された。
ただ、それだけだ。」
たいしたことない問題だ。誰にも影響しない。
でも、こういう時間を入れ替えるような手法が、悪用される場合もあるのでは…とでも考えているな、アラン。
考えないほうがいいぞ、と彼に視線を送れば、開きかけた口を閉じた。
いい子だ。
翌朝、予想通り、公爵家門前には49台の馬車が列をなした。
協定書は50枚。そのうち1枚は私の分だ。
万一に備えて、いつもより多めの門衛が配置されている。
執事が4人、馬車一台分ずつの間隔をあけて並ぶ。
4台の馬車が進み、指定された位置で止まった。
最初の馬車の扉が開き、従僕が出てくる。
彼は公爵家の執事から書面を受け取ると、馬車の中の人物に渡したようだ。
中にいた人物の動揺を示すごとく、馬車が大きく揺れる。
だが、そのまま扉は閉じられ、馬車は去っていった。
ほぼほぼ同じ光景が49件繰り広げられ、約1時間後、最後の馬車がその場を去った。
「うん、やはり文書を用意してよかった。かかった時間も計算通りだ。
このような方式は、王宮で書類提出の混み合う時期にも使えるかもしれないな。」
私は、門前を望める3階の窓から様子を見ていた。
お茶を付き合ってくれていたアランは、思わずというふうに口を開いた。
「負けた競争相手を上から眺めるのは、どうかと思いましたが、実験をされていたんですね。」
「君は、私をそこまで意地の悪い人間だと思っているのかい?」
「いえ、いい意味で油断も隙も無い方だと。」
「誉め言葉と受け取ろう。
だいたい、仕事に無駄な時間をかけるのは馬鹿げている。
愛する人と過ごす時間が減るじゃないか。」
アランはひとつ息を吐く。
「妹はあなたに守られて、幸せな籠の鳥になったのですね。」
「籠になんか入れはしないよ。
ロゼールの勇気を守る剣と盾になりたいだけだ。
誰にも、傷一つ付けさせない。」
「どうか、妹をよろしくお願いいたします。」
「引き受けた。こちらこそ、よろしく頼む。義兄上。」
アランはなかなか優秀な男だ。
もう少し精神を鍛えてやれば、いい仕事をしてくれるだろう。
そう思い、彼に笑顔を向けると、彼の顔が引きつる。
逃がさないよ、アラン。
ロゼールと私の幸せな時間のために、優秀な手駒はいくらでも欲しいからね。