白夜鳴き
さらさらと、更々と、音の降り積む夜でした。
書卓で筆を執っていた私は、次の句を選びかね、白湯でも一服と腰を上げたところでした。ストーブの薬缶の吐く湯気に混じって、微かに覚えのある音を聞いたのです。
今年も降ってきた。座布団の端に寄せたスリッパを突っ掛け直し、表に面したカーテンを一寸ばかり引きました。
つんと冷えたサッシの向こうを、音が滑って行きます。
待ち遠しい様な、胸苦しい様な、肌身に小さく爪立てる様な。聞かぬふりを決め込むには遅く、けれどそのまま開くには覚悟が必要でした。差し当たり先へ伸ばす事にして、私はストーブへ取って返し、薬缶の白湯を湯飲みへ落としました。
年越えの粉雪は、降りながら鳴くのです。鳴き雪、あるいは音雪と呼ばれるそれとは違います。積もって踏まれて軋る音ではなく、雪そのものが鳴く音。聲、と表した方が適切かも知れません。実際、聲雪と読む人もありました。
細くかそけく、耳をそばだてねば聞き逃しそうで、注意すればひとつひとつ聞き分ける事もできました。天からの手紙と呼んだのは、昔の学者先生だったでしょうか。まさに手紙を朗読する様に、粉雪は鳴くのです。
喉を湿してひと息ついたところで、カーテンを半分退けました。街灯の佇む通りはほの白く、すでに靴底は埋まる嵩と見えます。
積もってしまえば口をつぐむ結晶たちは、音を呑んでいるのです。あとは融けて消えるだけ、壊れて葬られるだけ。無視して過ぎれば過ぎたもの。知りながら私はサッシを引きます。湯呑みを上る湯気の筋が、疑問符の形にたわみました。
初めに舞い込んだのは『元気か』でした。
狙った様に湯呑みへ降りた四ひらの音は、縁を流れて指に滴り、しわの間へにじみました。
あいにく元気よ。憎まれ口を返したくても、届ける術がありません。湯気も、焼いた煙も天へ上るのに、聲雪を逆さに降らせる事は出来ないのです。
『元気か』『寒くないか』『風邪ひくなよ』
これで何年経つでしょう。忘れてしまえばどんなにか楽なのに、相変わらずわがままな人。曇った息で抵抗しても、音は湯呑みへ落ちて行きます。
閉めて離れればいいものを、何年経っても開いてしまう私も片意地です。湯冷ましの温度に下がった一口に、何文字が融けているでしょう。呷った喉は薄苦く、あの日の煙さえ匂ってくる様でした。
***
雪は音を呑むのだと、教えてくれた人でした。
雪が降ると静かになるのは、結晶の隙間に音の振動が吸収され、人の耳に届かないから。吸収された振動は、降り積もった結晶の檻で反響を繰り返し、徐々に静まって消えていくのだそうです。
「結晶の形が違うんだ」
ならば聲雪はなぜ鳴くのか。聞けば笑って答えます。懐中電灯が照らす顕微鏡には、氷温に冷やしたプレパラートが乗っていました。
「……丸い」
覗き込んで映ったのは円盤でした。表面は七色に干渉し、美しいより見慣れた形に感じました。
「天然の光学ディスク。面白いだろ」
得意様で、例によって解説を始めます。詳しいメカニズムは解明されておらず、幾多の条件が重なる無二の機会が、年越えの夜なのだろうという事です。
近年は暖冬傾向が高まり、この時期に雪の降る事も稀になりました。融けても凍っても結晶は変わってしまい、その場でしか確認できない現象。僥倖と言わんばかりの目をして、隠しきれない興奮に染まった声で、ほとんど子供のはしゃぐ様でした。
正直私は、寒くて早く帰りたかった。大晦日の夜、聲雪を待って二時間近く、外で粘った後でしたから。
「録音もできるんだぞ」
「そう。面白いわね」
生返事を返せば、にかりと笑って投げ返しました。
「じゃあ書けよ」
答えを待たず、鼻水をすする音。呼び出しの何時間前からいたのでしょう。着ぶくれた猫背の影は、小刻みに震えていました。
公園の時計が十二時の鐘を打ち始め、鳴り終わると同時に、音が私を包みました。
調子外れに裏返った『一月一日』に、驚くより笑ってしまいました。
「下手くそ」
どう吹き込んだかは知れませんが、朝まで降る予報です。夜じゅう聞かせ続ける気? 冗談交じりに睨む私と、上ずった口笛で濁す猫背に『一月一日』が降り注ぎます。
「停止ボタンないの?」
「あったら俺が押してる」
しまいに馬鹿らしくなり、二人して大声でがなり、馬鹿丸出しに笑いながら家まで競走しました。
「書いてよ」
蒸し返されたのはベッドの上でした。
「ひとつくらい、くれてもいいだろ」
咳がちな声を絞り出し、小さく笑う眼は、わがままな子供のままでした。
返事はしませんでした。片意地な私は、この期に及んで認めるつもりがなかったのです。
何も要らないと言ったくせに、私の一切を奪っていく人。そばにいてくれれば。自分が言ったくせに、私だけ置いていく人。冥途の土産など断じてくれてやるものか。唇を結んだきりで見送ったのは、年をもう二つ越し、名残り雪の舞う弥生の末でした。
真っ直ぐ天を指す煙は、心なしか墨の匂いがしました。
結局書かされた。不格好にゆがんだ原稿紙の束。炙り出された文字は空に融け、いつか聲になって戻るのでしょうか。
自分はせがんだくせに、録音方法は教えてくれませんでした。
音のない雪は湿って重く、落ちぬ先から透き通って水になりました。
『またいつか』――結びの五文字を聞いた気がしたのは、大方私の気のせいでしょう。
***
きりなく降り積む音が、延々何を読むかも承知で、それでも開いてしまうのです。他人様に聞かれたらどうしてくれよう。今や見張りに近い心境です。
やはり書くのではなかった。時を巻き戻せるなら、棺の中のしたり顔をつねり上げてやったものを。
馬鹿に張った声で、昔の駄文を朗読されるほど、恥ずかしい事はありません。おまけに私は、止める方法を知らないのです。
いつまでも若い声に耳まで熱く――九分九厘が『いい加減にして』ですが――、還暦の女が、娘の様に頬を染めて。こぼすくらいなら、むしろいい加減にすべきは私でしょうか。
何度何篇繰り返しても、まっさらなページをめくる様。耳を澄ませて追い掛けて、また年を越してしまいました。
ひとくさり読み通して気が済んだか、小一時間もせぬうちに、音は止みました。
通りは思いの外に嵩が浅く、陽が射せば影もなくなるでしょう。間に合うだろうか? 苦い白湯を雫まで飲み切り、書卓へ取って返して筆を駆りました。
今度は時計の針に追い掛けられ、筆が原稿紙を滑って行きます。さらさらと、更々と、降り積む音が届いたら、あの人はどんな顔をするでしょう。
火照った熱もそのままに、とびきり甘い恋文でも綴ってくれようか。積もる先からあふれるほどの『愛してる』を織り込んで。腕まくりに意気込む私も、しょせん負けず劣らず子供なのです。
お終いの句点を打ったところへ雫が落ち、図った態のひとひらが、きれいなハートを描きました。
長い書初めだな。そう嘯いて、どうせまた笑ったでしょう。SNSは未体験のはずなのに、天から『いいね』された様です。こんなささいな機嫌取りを噛み締めて、きっと私は、次の音連れも待ってしまうのです。
気の早い左義長と洒落込み、焼いた餅でぜんざいでも作りましょうか。―好きだったでしょう、貴方。まったく口も子供なんだから。
多少塩が利くのは勘弁してちょうだい。私はいい大人だし、甘みはその方が引き立つものよ。
淹れ直した白湯を舌で転がしつつ見返ると、来光が通りを染めたところでした。
きらきら弾けて天へ還る雪は、どんな聲で歌うでしょう?駆け足に原稿紙を束ね、カーテンとサッシを開け放ちました。