少女の恨み、万事塞翁が馬9
「……っ。結菜、寝たふりをしていろ」
「?う、うん……」
「それと――」
ふと何かに気づいて顔を強張らせた遥音に首を傾げながらも、結菜は彼の言うことをよく聞いた。寝たふりをすることに追加された指示の意味を結菜は理解できなかったが、言われた通りに目を閉じてその時を待つ。
だがそのうち鼓膜を不快に刺激してくる足音のせいで、最初の指示の理由を嫌でも察してしまう。
結菜は閉ざされた暗い視界の中、聴覚という限定された感覚だけでその足音の正体に気づく。
毎日毎日。アパートの外からこの音が聞こえてくる度に結菜は体を震わせて、始まる地獄に備えていたのだから。
現れたのは先刻の男で、目を覚ました遥音に下劣な笑みを向けている。
「よう。さっきはよくもやってくれたじゃねぇか」
「見れば見るほど結菜に似ていないな。まぁお前のようなクズに似なかったのは結菜の人生最初の幸福だろうが」
鈍い音がする。結菜は思わず声をあげてしまうところだった。その音をよく自分の身体で鳴らされた覚えがあるからだ。
結菜は寝たふりをした状態でも分かってしまった。遥音が自分の父親に殴られたのだということを。
遥音は左頬を殴られた反動で顔を右側に逸らす。だがその表情は至って冷静で、瞳は青色が窺えそうなほど冷めている。一方の男は遥音の煽りに怒りを沸き立たせ、顔を赤くしている。
「もう一度言ってみろ」
「……?耳が悪いのか?そもそも何故お前のために同じことを二度も言わなければならない。お前の俺を甚振りたいという欲求のために労力を被るほど、俺はお人好しではないんだ。故に断る」
また鈍い音がした。結菜は涙を滲ませないように必死に歯を食いしばる。あの痛みを遥音が今受けているのかと思うと耐えられそうにもなかった。だがここで声を出してしまえば、遥音の思いを無駄にしてしまうので、結菜にできるのは耐えることだけだ。
結菜はつくづく、自分が何もできない子供なのだと思い知らされ、悔しさで奥歯を噛み締める。
「お前、この状況が見えてねぇのか!?」
「あいにく眼鏡の度は合っている」
「お前は人質なんだよ」
「ほぉ……あぁ、なるほど。そういうことか。くだらん男かと思えば、犯行動機までくだらんのだな」
「あぁ?どういう意味だ」
人質と聞いて、こうなった理由を察した遥音は呆れたようにため息をつく。だが男は自身が口を滑らしてしまったことにも気づけていないのか、遥音の言葉の意味を理解できていない。
「要は全て俺の父親が目的だろう?」
「……まぁ、お前に隠す必要もないか。どうせこの後死ぬんだからな」
図星をつかれた男は顔を顰めたが、すぐに得意げになってそう言った。だが結菜には二人の会話の意味を理解することができない。ただ結菜は父親が発した〝死〟という単語に鳥肌を立たせる。
「最初はそこのガキに警視総監様の弱みを探らせようとしたんだが、コイツ……使えねぇんだよなぁ」
結菜に視線をやった男は、ギュッと目を瞑っている結菜の髪を乱雑に掴んで持ち上げる。結菜の髪が何本か千切れる小さな音が、遥音の脳に強烈に刻まれる。だが結菜にとっては慣れた痛みなのか、彼女は僅かに顔を顰めただけだ。
一方遥音は目の前で結菜を乱暴にされて、視界が真っ赤に染め上げられるような錯覚に陥る。
「おい……今すぐその手を退けろ」
「っ……」
遥音の鋭い殺気に当てられた男は思わず冷や汗を流す。同時に結菜の髪を掴んでいた手の力も緩み、結菜は地面に投げ出された。
「お前、まさかこのガキのことが大事なのか?……なら、こうするか。今後ふざけた口を俺に聞いたら、このガキが傷つくことになるからな」
「……」
「ははっ、分かりやすいなお前。流石は警視総監様の息子だな」
遥音の弱みにようやく気づいた男は、結菜を盾にすることを思いつく。結菜のために単身ここまで乗り込んできた時点で気付くべきだったのだが、男にそこまでのお頭は備わっていなかったようだ。
一方、結菜を人質にされてしまった遥音は眉を顰めたまま黙りこくってしまう。
「この使えないガキにもようやく利用価値が出て来たってことか」
「……つかえ…………いや、何でもない」
「あ?なんだよ」
「何でもないと言っている」
腹立たしい物言いをする男に遥音が言いかけた言葉は『使えないのはお前の方だ』だったのだが、これで結菜に暴力を振るわれては堪ったものではないので、既のところで我慢した。
実際、警察にバレないように警視総監の弱みを探るという無い物ねだりな無理難題を、子供にさせようとする計画自体が馬鹿げているので、遥音の本音は何一つ間違っていないのだ。
「それで。弱みを握ることができなかったから、こうして弱みを無理やり作ったというわけか」
「あぁ。頭がいい坊ちゃんは話が早くて助かる」
動機は分からないが、遥音は大体の事のあらましを理解した。
何らかの理由で警視総監である慎一の弱みを手に入れようとした結菜の両親は、自分の子供を利用したが失敗してしまったので、遥音を人質にすることで強行突破することにしたのだ。
金か、怨恨か、それとも他の何かか。遥音に動機を知る術はないが、今の状況を誰よりも理解できている。
「それで?目的を達成できたらお前の顔を見てしまった俺を殺すか……残念だが、父は俺が死ぬと分かっていて交渉に応じるような人ではないぞ」
「なんだと?」
「父は利口な人だ。条件を飲んだところで俺が無事に戻ってくる確証がないことぐらい当然分かっているだろう。こちらにデメリットしかない交渉を受けるわけがないだろう」
「そいつはどうだろうな?」
「お前に父の何がわかる。父は愚か者ではない。意味もなくゲスの要求を飲み、俺の望まない結果など導かない」
強気に言ってはみたものの、遥音は内心父親の取る行動が読めずにいた。今までの遥音ならはっきりと断言することができただろう。
人質は役目を終えた段階で犯人にとっては足枷にしかならない。全ての犯人が人質を最初から殺そうとしているわけではないが、今回は違う。
男は遥音の視界を遮っていないのだ。つまりは遥音に顔を見られても問題ないと思っているということ。それは最初から遥音を生かすつもりがないということだ。
遥音を人質にとったことを証明するために、男は慎一に拘束した遥音の写真ないし動画を送るだろう。それを見れば、慎一は犯人が遥音を殺すつもりだということに確実に気づく。だから遥音には断言できるはずだった。父はこの交渉にのらないと。
だが遥音は慎一が自身に甘いことを最近自覚し始めた。その為、親の欲目で愚かな判断をしてしまうという可能性を、遥音は否定できない。
「それで?結局お前は何が目的なんだ?」
「……」
「どうせ俺は死ぬんだ。それぐらい教えてくれたっていいだろ?」
結菜の眉がピクリと動く。遥音にそのつもりは毛頭なかったが、結菜にはそれが軽口に聞こえなかった。だからこそ遥音が本当に死んでしまうのではないかと不安に襲われたのだ。
一方男の方は遥音の質問に答えるかどうか悩んでいるようで、顔を顰めたまま口を閉ざしている。
男が口を開こうとした時、とある人物が遥音たちの目の前に現れた。
ショートカットの黒髪に、色白な肌。平均よりも少し高い背もあってモデルのような体型だが、肌が所々荒れていたので健康的ではない。
女性であることから、遥音は自身を気絶させた人物ではないかと予想する。だが遥音には僅かな違和感があった。
それは目の前の女をどこかで見たことがあるような、そんな既視感だ。この場合は、誰かに似ていると言った方が適切である。
それが誰なのか、喉のところまで出かかっていたが、遥音がそれを思い出す前に女が口を開いた。
「へぇ……この子があの結城遥音ね。確かにあの子が気に入りそうなタイプね」
「何の話だ?……というか、お前たちは結菜の産みの親ということでいいんだな?」
「そうだけど?」
この二人を結菜の両親と呼ぶのは抵抗があったのか、遥音は産みの部分に力を入れて尋ねた。この二人がしたのは結菜を産み落としたというただ一点のみで、何の責任も果たしていないからだ。
「俺を殺した後、結菜をどうするつもりだ?」
「あなたには関係ないでしょ?私あなたみたいな偽善者嫌いなのよ」
「お前らのような真っ黒い悪意しか他者に与えない奴より、偽善者の方が百億倍マシだ」
遥音は結菜を盾にされていることも忘れて反論した。遥音は例えそれが偽善であっても、そんな偽善で誰かが救われるのなら良いのではないかと思っている。
そもそも偽善がどうのと言う輩は、大抵相手に悪意あるものを垂れ流す人間なので、そんな奴らに言われる筋合いはないのだ。
「……別に。今まで通りよ」
「そうか。それならそう簡単に死ぬわけにもいかなくなったな」
「はぁ?この状況で生き残れると思っているの?ここには一人で来たんでしょ?」
結菜にとっての最悪手を見逃すわけにはいかないので遥音はそう断言したが、助けも来ないこの状況で何ができると女は嘲笑った。
だが遥音は至って冷静で、寧ろ女の方が滑稽であるかのように笑みを零している。
「事前調査を怠ったようだな」
「どういう意味?」
「神坂のことだ」
「神坂?」
「存在すら認識していないのか?まぁいい。その神坂という男は、過保護が過ぎて俺みたいな奴に発信機を忍ばせるような後輩なんだよ」
「「っ!?」」
結菜の両親が驚くと同時に、飛び跳ねてしまうような轟音が鳴り響いた。音の方向を振り向くと、扉がスーパー側から蹴り飛ばされていて、ほんの少し拉げてしまっている。
壊れた扉から足を踏み入れた人物に、遥音は思わずため息をつきたくなる。
「流石は遥音先輩、分かった上で利用するなんて、策士ですね」
「ほんとに発信機なんてつけてたんだ……」
扉を蹴飛ばしたのは当然透巳で、そんな彼を明日歌が後ろで呆然と見つめている。結菜はあまりの急展開に寝ているふりも忘れて首をキョロキョロと動かしてしまったが、幸い両親も透巳たちの登場で驚いているせいか気づいた様子はない。
「来るな!こっちには人質がいるんだぞ!」
「あー……イキってるところ悪いんだけど、もう警察呼んじゃったから遥音先輩か結菜ちゃんを殺したところですぐ捕まるし、罪重くなるだけだからデメリットしか……」
事前に遥音の居場所を把握できた透巳が、その場所を慧馬に知らせるのは容易い。なのでこの状況で遥音たちを盾にするのは愚策だ。ここで結菜の両親が取るべき最善手は、結菜を連れて逃げることだ。遥音には発信機がつけられているので連れていけばすぐに居場所が割れてしまう。その発信機を潰すために探す時間を費やしては、警察に追い付かれてしまう。
なので居場所を知られる可能性がなく、移動するのに手間がかからない子供である結菜を人質として逃げるのが一番の勝ち筋だ。
だから遥音はそれを防ぎたかった。最初から透巳がここを訪れると予測できた遥音は、それだけが心配だったのだ。それを防ぐには、結菜が両親から逃れることが絶対条件。それには両親の目が結菜から離れる必要がある。だから遥音は結菜に寝たふりをするよう指示した。両親がほんの少しでも油断するように。
********
「っ……。結菜、寝たふりをしていろ」
「?う、うん……」
「それと、俺の見立てだと恐らくこの後神坂たちが来る。俺が合図したら、立ち上がって神坂……いや、神坂と来るであろう誰かの方に全速力で走るんだ。その時までは決して目を開けてはいけない。いいな?」
遥音の指示が何を意味するのか結菜には分からなかったが、彼女は遥音を信じて頷くとその目を閉じた。
********
「今だ」
「っ……」
両親に聞こえない音量で言った遥音。結菜はその声を皮切りに立ち上がると、必死の思いで明日歌の方へ走る。幸い、結菜が縛られていたのは肘から上で、足までは縛られていなかった。
遥音の方はキチンと足まで縛っているのを見ると、自身に怯えきっている結菜が逃げるわけがないという油断があったのだろう。
「このガキっ……!」
結菜が走り出すのに気付くのが一歩遅れた父親は、苛立ったように結菜を追いかけようとする。だがそれは結菜が走り出すのと同時に反応していた透巳によって阻まれる。
男は向かってくる透巳にナイフを構えるが、それを透巳は手首ごと掴んで防ぐ。そしてそのまま男の腕を思い切り捻ると、相手は突如襲ってきた痛みに苦悶の声を漏らす。同時にナイフは父親の手からこぼれ、透巳はその隙に男の腹に拳を三発連続で入れる。
トドメに容赦のない後ろ回し蹴りを食らった父親は、吐血しながらその場に倒れ込んだ。どうやら歯が数本折れてしまったようで、血に塗れたそれが随分と地味に転がっている。
一方ただ足を走らせることだけに集中していた結菜は、無事明日歌の元に辿り着いた。だがそのすぐ後息を切らしながら、結菜は当惑したように明日歌を見上げる。
明日歌が結菜を気にするわけでも、透巳の戦闘に見入っているわけでもなく、ただ一点を見つめていたからだ。
明日歌の視線の先には結菜の母親がいて、遥音はその時初めてあの既視感の正体に気づく。
「明日歌先輩?」
結菜の父親を倒した透巳も明日歌の変化に気づき、怪訝そうに尋ねた。そんな透巳の声も明日歌には届いていない。
明日歌は目の前の存在が信じられなかったのだ。いや、信じたくなかった。
「おねえ、ちゃん」
「「っ!?」」
そう呼び掛けた明日歌の瞳には、一言では表しきれない感情の色が滲んでいた。
次は明後日更新予定です。
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