少女の恨み、万事塞翁が馬8
寝たふりをして保健室を抜け出した結菜は、事前に両親から指定されていた場所へ向かった。
大した防寒具を持ってこなかった結菜は体を震わせながら少しずつ歩を進める。その道中、結菜はこれで良かったのだと、大丈夫だと、自身に言い聞かせることで平静を保っていた。何も大丈夫なことはないのだが、結菜にはもう何が正常な大丈夫の状態なのかもよく分からない。
見上げると薄暗い空を照らす粉雪が視界の端に紛れ込む。透巳であれば顔を顰めるところだが、結菜は初めて見る雪にポカンと口を開けたまま見入ってしまう。
だから結菜は自身の背後に忍び寄る恐怖の対象に気付くことができなかった。
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その頃透巳たちは結菜を探すため、初めて会った家電量販店の近くを訪れていた。三十分近く探しても結菜の姿は見つけられず、透巳たちは捜索範囲を広げようとしていた。
「ねぇ透巳くん。この非常事態でもその格好なの?」
「非常事態だろうが何だろうが、寒いものは寒いんです」
普段ツッコんでくれる遥音が今回ばかりは結菜のことが心配すぎてそれどころでは無かったので、代わりに明日歌が透巳の超厚着をツッコんだ。
最近では慣れて来たその格好も、この異常事態では浮きまくりなのでツッコまざるを得なかったのだ。
「そんなことよりも今はゆな探しに集中しろ。一刻も早くゆながどこに行ったのか特定しないと……」
遥音が若干焦りの混じった声でそう言った時、遥音の携帯から短い着信音が鳴った。少なくとも電話の着信音ではなかったが、透巳たちにはそれが何の着信音なのか正確に判断することはできない。
ただ、メールかそれに似た何かだろうと全員が予測を立てる。
遥音はスマートフォンを取り出して画面に視線をやると、一瞬だけ眉を顰める。だがすぐに元の表情に戻ると、何でもなかったようにスマートフォンをポケットに戻す。
「遥音?どうかした?」
「いや、何でもない。ただの広告メールだ」
「そう……」
遥音の一瞬の変化に気づけない明日歌ではなかったが、本人にそう言われて仕舞えばそれを信じるほかない。
「このままでは埒があかない。手分けして探さないか?」
「……流石に一人はおすすめできないので、二組に分かれましょうか」
突然そんなことを言った遥音を怪訝に感じたのか、透巳はそんな提案を持ちかけた。当然透巳もスマホを視界に入れてから遥音の様子が一瞬だけ変わったことに気づいている。なので遥音が分かれて捜索しようと提案したのが、あの着信音のせいだった場合、遥音の危険が保証されているようなものなのだ。
「じゃあ俺、遥音先輩と一緒に行く」
「……じゃあ兼くん、よろしく。俺は明日歌先輩と一緒に行きます」
遥音に同行する相手として立候補したのは兼で、明日歌は彼の意外な行動に少々目を見開く。
自慢ではないが、明日歌は兼から好かれているという自負があったので、彼なら自身と一緒に行動したがると思ったのだ。
それを感じたのは透巳も同様だったが、兼なら特に心配する必要もないだろうと判断し、遥音のことを兼に任せることにする。
だが透巳はこの時、無理にでも遥音の傍を離れないようにしなかったことを、のちに大きく後悔するのだった。
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「遥音ってさ……ズルいと思わない?」
「ズルい?」
人が飛び交う街中、そう言ってため息をついた明日歌の息は白く、肺が凍りそうにがなるほど空気は冷たい。
「なんていうか、表現が難しいんだけど。……遥音はいつも正しいからさ、例えそれが私にとっては嫌なことでも、遥音にはそうするだけの至極真っ当な理由があって。それを盾にされちゃうともう、何も言えないっていうか……」
「明日歌先輩の言いたいことは分かりますが、ズルいとは少し違うんじゃないですか?」
結菜がいなくなってからというもの、どこか様子のおかしかった明日歌だったが、透巳はようやくその理由を少し理解できたような気がした。それは結菜がいなくなったことに対する不安ではなく、もっと別の根本的な何かだ。
簡単に言ってしまえば、明日歌は遥音のことが心配なのだ。それなのに遥音は誰かのために簡単に危険を冒してしまうような性格で、明日歌はいつも気が気でない。
その上遥音は自身を心配する人間が、彼の主張を肯定せざるを得ないような状況に持っていくことが得意だ。しかもそれは無自覚で行われている。
今回の場合もそうだ。いくら明日歌たちが遥音を心配しようが、結菜のためだと言われてしまえば明日歌たちにそれを阻む権利はない。遥音と結菜ではどちらを守るべき、か弱い存在かなんて明白で確認するまでもないからだ。
「ズルいとかそういうことじゃなくて、ただ単に、遥音先輩が最初から強いってだけですよ」
「……それただのチートじゃん」
透巳なりの解釈に、明日歌はどこか遠い目をする。
「それにしても結菜ちゃん、どこに行ったんでしょう?」
「遥音たちに連絡してみよっか?」
辺りを見渡しながら一向に見つからない結菜に思考を飛ばす透巳。明日歌は遥音と現状報告するためにスマートフォンを取り出した。
「……出ないし。はぁ……仕方ないなぁ、兼のに連絡するか」
「……」
何故か遥音と連絡が取れず、明日歌は思わず首を傾げた。一方の透巳はどこか怪訝そうな表情で明日歌を見守っていて、彼の胸は不気味にざわめき始める。
「あれ……?兼も出ない」
「……やられた」
「え?」
遥音と兼二人共が電話に出ない異常事態に透巳は頭を抱える。透巳の嫌な予感が当たってしまったのだ。
「明日歌先輩、今すぐ二人を探しに行きますよ」
突然血相を変えてそう言った透巳に明日歌は当惑してしまうが、彼の様子から今がどれだけ危機的状況なのかを察知することだけはできた。
********
数十分前。透巳たちと分かれた遥音は難しい相好で兼に視線をやっていた。遥音にはどうしても一人にならなければいけない理由ができてしまったからだ。
遥音は兼の目を盗んで先刻スマートフォンに送られて来た〝広告メール〟を再度確認する。
〝結菜を無事なまま返して欲しければ、一人で次の場所に来い。もし誰かにこのことを話したら、結菜の体に傷が増えると思え〟
こんなものが送られて来てしまったせいで、遥音は一人になるタイミングを探っていた。だが透巳の勘が鋭いせいでなかなかチャンスが訪れず、今も兼をどう撒こうか考えあぐねているのだ。
「遥音先輩」
「なんだ?」
「行ってもいいよ」
「っ……!」
兼の言葉に遥音は開いた口が塞がらない。兼の口ぶりは明らかに遥音に送られて来た〝広告メール〟の正体を知っているもので、まずどうして兼がそれに気付いたのかが遥音には理解できない。
そして次に疑問なのは、兼がその内容を理解した上で了承したことだ。メールの送り主は十中八九結菜の両親。そして遥音一人に来ることを要求しているということは、遥音に何らかの危険が迫っている可能性があるということだ。それを理解できない兼ではないし、遥音には彼があっさりと了承した理由が皆目検討つかなかった。いつも無表情な兼の相好からその答えを見つけることはできない。
「どうして……?」
「ごめん、遥音先輩。……俺、やっぱり姉貴のことが一番大事だから」
その答えの意味を正確に理解することは遥音にはできない。遥音に分かるのは僅かなことだけだ。
兼が明日歌を姉として大事に思っていること。この瞬間、二人の利害は一致しているということ。
********
遥音が指定された場所は潰れたスーパーの駐車場で、初めて結菜に会った場所から近いところに位置していた。
冬の夕刻は陽が落ちるのも早く、遥音の視界を遮る西日ももうじき隠れてしまうだろう。橙色に染まるまばらで美しい雲も、今の遥音の瞳には映らない。
遥音は結菜がこの場にいないか必死に探すが、探し人は簡単には現れてくれない。
そんな遥音に背後に忍び寄る影。西陽によって長い影を作るその人物は片手に金属バットを持っている。
バットを片手から両手に持ち替えたその影は、遥音の頭目掛けて彷徨う長い影を振り下ろした。
「っ……!?」
「全く舐められたものだ。神坂ほどでは無いにしろ、刑事を目指している者に武道の心得がない方がおかしいというのに」
バットを振り下ろした男は予想外の状況に目を見開いている。遥音はバットを最小の動きで避けると、行き場を無くしたそれを右手で掴んで離さない。
男がいくら力を入れて引き抜こうとしてもバットは動かず、男から焦りによる汗が大量に噴き出る。
遥音は刑事になるため、小さな頃から柔道を習っていたので身体的にも強いのだ。ちなみに実力は黒帯を身に着けられるレベルだ。
遥音は右腕の力を緩めることのないまま、自身に襲いかかってきた男を冷たい瞳孔で観察する。
相手は二十代後半程度のガタイの良い男で、普通に考えて結菜の父親か、メールの送り主が雇ったチンピラだろうと遥音は推測を立てる。
「ちっ……」
「道具に頼ることしかできんのかこの無能」
「黙れガキ」
片手にバットを、もう片方の手でナイフを取り出した男に、遥音は眉を顰めつつそう言った。普段から遥音の毒舌に慣れている者ならどうということもないが、気の短い初対面の人間にとって遥音の罵声は簡単に煽り文句と化してしまう。
青筋を浮かべながら遥音に斬りかかった男。だがそれに対し遥音はつかんでいたバットを使ってその攻撃を防ぐ。その過程でナイフがバットに刺さって抜けなくなり、男は両手を塞がれた上、武器も使い物にならなくなってしまった。
それを好機とした遥音は男の足を引っ掛けて転ばせ、そのまま絞技をかけようとする。
だがそんな遥音の思惑は思わぬところから阻害される。
「ぐっ……」
背後からの衝撃に遥音は顔を顰め、思わず膝をつく。その未知の衝撃がスタンガンによるものということは遥音にも分かったが、一体どこの誰がそれを使って襲って来たのかは分からなかった。
その正体を掴もうと後ろを振り向く直前、再度スタンガンを当てられてしまい、遥音はとうとうその意識を手放してしまう。
遥音に分かったのは素肌に感じるゴツゴツとしたコンクリートの感触と、自身を眠りへと導いたのが女だということだけだった。
********
「……ちゃ……」
(なんだ……?)
雪が降り、静寂に包まれた世界でなければ聞こえない様な声がする。まるでその声を聞くために雪が降ったのではないかと思う程、その声は聞き逃してはいけないものだ。
遥音は軋む身体に顔を顰めるが、自身の鼓膜を刺激する声の方が気になりそちらに意識を集中させる。
「……にいちゃん……」
(結菜か?)
この世で遥音のことを〝お兄ちゃん〟と呼ぶのは一人しかいない。なので遥音はそう推測したが、働くのは脳ばかりで体はまったく言うことを聞いてくれない。
目を開けたくても瞼は鉛のように重たく、身体を動かしたくても何かに縛られているようで腕を伸ばすこともできない。
だが遥音はまず、結菜が無事であることにほっと胸を撫で下ろした。結菜が今どんな状態かも確認できないが、少なくとも両親によって殺されているなんていう最悪の事態にはなっていないようだ。
「はるとお兄ちゃん……」
結菜の声に切迫したような涙声が混じる。呼んでも呼んでも遥音が目を覚まさないので不安になってきたのだろう。
遥音は自身の奥底に眠る根気を叩き起こして、ゆっくりとその瞼を開く。その時初めて、遥音は初めて自身が縛られた状態でしゃがんでいることに気づいた。
「はるとお兄ちゃんっ……」
「……結菜……怪我はないか?」
起きて早々結菜の心配をした遥音に、彼女は驚きで目を見開いた。対して遥音は結菜が自分と同じように縛られている事実に憤慨している。結菜は遥音の隣で同じようにしゃがみ込んでいて、その相好は今にも泣き出しそうだ。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい……」
「何をそんなに謝っている?」
「だって……私のせいで……」
遂に涙を流しながら、必死に謝り続ける結菜に遥音は首を傾げてみせた。だが結菜が何を思っているのか本気で分からなかったわけではない。
「結菜のせいではない。全て承知した上で、俺が勝手に来ただけだ」
「えっ……?」
結菜は当惑する。遥音が結菜の目的を知らないと思っていたからだ。だからこそ、結菜を哀れで可哀想な子供だと思っていたから遥音はこんなにも優しくしてくれるのだと、そう思っていたのだ。
だが遥音は全てを知っていると言った。それは結菜が結城家の弱みを探ろうとしていることも知っているということだと結菜は思った。そして同時にこうも思った。
自分は遥音に嫌われてしまったのではないかと。こうして遥音は助けに来てくれたのだからそんなわけも無いのだが、結菜はそれだけ動揺していたのだ。
結菜は生まれた時から両親に嫌われていることを自覚しながら生きて来た。だから今更両親に好かれたいなどとは思っていない。
だが遥音は。遥音たちは違う。遥音たちは初めて自分に優しくしてくれた存在。初めて一緒にいたいと思えた好きな人たち。そんな遥音たちだけには嫌われたくないと、結菜は初めて抱える不安に当惑してしまう。
「結菜が責任を感じることではない。全ては結菜にこんなことを指示した奴等と、俺一人のせいだ」
「はるとお兄ちゃんのせいじゃ……」
「結菜がそう思うように、俺も結菜のせいだなんて微塵も思っていない」
「!……」
心優しい二人はどうしたって自身の責任に感じてしまう。だがそれは同時に、遥音と結菜が他人のせいだとは微塵も思っていないことを意味する。
二人が自身を責めないためには、互いのその気持ちを理解するしかない。幸いなことに、この二人は他人のせいにしない心情を誰よりも理解できる。
結局、遥音のせいでも。結菜のせいでもないのだ。
次は明後日更新予定です。
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