少女の恨み、万事塞翁が馬5
一時間後。百弥がどれだけ経っても負けを認めないということを悟った明日歌たちは、彼を強制退場させた。我慢強い百弥と、そもそも我慢などしていない透巳。これではいつまで経っても勝敗がつかないので、今回は引き分けということで無理矢理幕を閉じたのだ。
百弥は不服そうにしていたが、こうでもしないと日が暮れてしまうので仕方のない処置である。
百弥の座っていた椅子の下には、彼の汗が流れたことで水溜まりが出来ていた。そして当の百弥はキツい苛めにでも遭って来たのかという程びっしょり濡れていて、とてもそれが汗の仕業だとは思えない程だった。
「百弥くん、先生に頼んでプールのシャワー借りたら?」
「おう、そうさせてもらう。にしても透巳は相変わらず涼しい顔してんな」
「そう?これでも少しポカポカしてきたよ」
「ポカポカって」
むしろ今まではポカポカもしていなかったのかというツッコミを入れたかったが、透巳が至って本気でそう言っているのが窺えたので、百弥はスンデの所でそれを飲み込んだ。
「ねぇねぇみんな!他のところ回ろうよ!」
「店番は誰がするんだ?」
「文化祭に興味が無い捻くれ者」
「他の言い方できんのか?」
立案者である明日歌が速攻で飽きてしまったらしく、彼女はそんなことを言い出した。文化祭なので大いに楽しんで結構なのだが、そうなってくると文芸部員の中から透巳と最低でももう一人が多目的室に残らなければならない。
「ゆなも明日歌について行って楽しんでこい」
「はるとお兄ちゃんは来ないの?」
「俺はここで店番をしておくから、気にせず行ってこい」
「うん」
ゆなは遥音と回りたかったらしく、それが叶わないと分かると気を落としたが、駄々をこねることなく受け入れた。
「あ、関口ブラザーズおかえり」
明日歌が出かけようとすると、先に休憩をしていた巧実と宅真が戻ってきた。二人は少ないながらも露店で買ったと思われる食べ物をいくつかぶら下げていて、それらの芳しい匂いが教室に飽和する。
「兼はどうする?」
「俺は、いい。姉貴とゆなちゃんの二人で行って来なよ」
「りょーかい」
今帰ってきた双子、透巳、遥音が留守番となると、明日歌とゆなの二人きりになるので、ゆなはクリクリとした目で明日歌を見上げている。
「よし!ゆなちゃん。この明日歌お姉様についてくるが良いよ!」
「あすか、お姉様?」
「ふふふ。気分いいね。もう一回言って?」
「おいゆなに変なことを教えるな。脳が腐る」
「私破壊兵器にでもなったの?」
純粋なゆなにそう呼ばれたことで気を良くした明日歌だったが、それを一切として許さないのが遥音だ。
「じゃあ行ってくるよ」
「い、行ってきま、す?」
明日歌の見よう見まねで挨拶したゆなはとても庇護欲をそそられるもので、その場にいる全員の頬が緩んだ。そんなゆなたちを送り出すと、男陣だけが残った多目的室に謎の沈黙が流れる。その静寂が居心地悪かったのか、透巳は何か会話の話題は無いものかと思考する。
すると、明日歌がいない今が好機な話題があったので、透巳は唐突に直球な質問をぶつけることにした。
「そういえば遥音先輩って明日歌先輩のこと好きなんですよね?」
その瞬間遥音以外の全員が思った。透巳は遥音に殺されてしまうと。そしてこうも思った。何故わざわざそんなことをいちいち聞かなくてはならないのだと。
理由は簡単である。遥音が明日歌を好きかどうかなんて、聞くまでもなく是だからだ。当の明日歌は気づいていない様だが、遥音の態度は分かりやすすぎる上、ツンデレである彼が明日歌に最も当たりがキツいという時点で誰でも気付く。
そんな周知の事実をわざわざ遥音の琴線に触れてまで確認する必要性など皆無なのだ。要はそれだけ透巳がこれまでの仕事で暇を持て余していたという証拠でもあるのだが。
「……ふん、まぁ。そうだな」
「…………え??」
心底認めたくないという表情ではあったが、遥音は恥ずかしがることもなく肯定した。思わず全員が耳を疑い、僅かな沈黙が生まれる。
「……なんだ?」
「遥音先輩がツンじゃない?こうもあっさり認めるなんて……まさか、遥音先輩の偽物?」
「殴るぞ」
「良かった。本物だ」
「お前の中で俺の判断基準はどうなっているんだ?」
未だ現実を受け入れられていない透巳たちに遥音は不本意そうな相好を見せる。だがそんな遥音のキレのあるツッコミを受け、漸く透巳たちはあの遥音が明日歌に好意を持っていることを認めたという事実を噛み締めた。
「なんで急に素直になったんですか?ツンデレは卒業ですか?悲しいです」
「そもそも入学していないのだが」
本人は意地でもツンデレを認めたくない様で、透巳の冗談めいた物言いに顔を顰めた。
「いや。冗談抜きで気になるんですけど、どうして俺たちにそんなこと教えてくれたんですか?」
「別に。お前たちに話したところで、明日歌や他の人間に口外するわけでもあるまい」
「「……」」
空気を飲み込む様に、そう口にした遥音に透巳は思わず目を奪われた。巧実たちも目を見開き、言葉を紡ぐことができずにいる。
透巳は誰もがこの男を無条件に信頼する理由の一端を、ようやく理解できた様な気がしたのだ。何故なら遥音自身が、相手に絶対的な信頼を無条件に寄せているから。
遥音は人を疑わないわけではない。それは将来刑事を目指す者にとって致命的な弱点になるからだ。だが遥音は信頼のおける相手であれば、それが当たり前であるかの様に信じきっていると言える。その対象はこの場にいる全員例外なくだ。
「……俺、やっぱり遥音先輩のこと好きです」
「急になんだ?」
唐突な透巳の告白に遥音は若干頬を染めつつ冷たく返す。透巳は自身が遥音の信用に値する存在になれたということを、彼が無自覚に伝えてくれたことが嬉しかったのだ。
「ここまで素直になれるなら、明日歌先輩に告白すればいいのに」
「俺はツンデレではない。ただ明日歌のことが好きだというのをアイツが知って調子に乗るのが嫌なだけだ」
「はぁ……」
遥音の謎理論に透巳は思わず首を傾げてしまう。それこそをツンデレと呼ぶのではないのだろうかというツッコミを入れる前に、遥音は更に言い募る。
「俺は確かに、不本意ながら、非常に不本意ながら、アイツをそういう対象として好いている。だが何故アイツが好きなのか、アイツのどこが好きなのか。それが一つも思いつかないんだ。好きになるのに理由はいらんとよく言うが、それは少なくともどこか気にいる様なところが相手にあって初めて成り立つ理論だ。だが俺の場合は好きな部分どころか、むしろムカつくところしか思いつかん。俺でも理解できていないというのに、結論だけアイツに知らせて調子に乗られても困るんだ。俺にとっても、アイツにとっても」
正直なところ、透巳はその考えは真面目すぎるのではないかと思った。遥音は自分にとっても不明確なこの感情をはっきりさせないまま明日歌に伝えて、彼女を困惑させたくないのだ。明日歌も遥音を好いていた場合はぬか喜びを。好いていなかった場合は余計な心配を与えてしまうと危惧しているから。
もし今後理解できたとして、明日歌への想いが恋情以外の何かだった場合のことを遥音は危惧している。だが透巳たちから言わせて貰えば、遥音の想いは間違いなく恋慕そのもので、そんなありえもしない仮定のために悩む必要はない。
それでも、そんな不器用で真面目なのが、結城遥音という男なのだろうと透巳たちは再確認し、わざわざ苦言を呈することはなかった。
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文化祭も終わりに近づき、学校が夕焼け色に染まる頃。文芸部の出し物は透巳の一人勝ちで幕を下ろし、あとは閉会式を待つのみとなった。だが出かけた明日歌とゆなが未だに帰ってこず、透巳たちが探しに出ようと腰を上げた時。
「あ、明日歌先輩。遅かったですね。今からみんなで探しに……って、ゆなちゃんは?」
「遥音、ヘルプミー」
「……迷子か?」
「ゆなちゃんがどっか行っちゃったよぉ……」
「すまん、俺はお前が迷子かと聞いたんだが」
ロボットのような棒読みで遥音に助けを求めた明日歌は、そのうち泣きそうな表情へと変貌した。どうやら学校を回っているうちにゆなとはぐれてしまったようだ。明日歌からしてみればゆなが迷子になったのだが、遥音は明日歌の方が余計なものに目移りしてゆなとはぐれる原因になったのではないかと冷たく突き放す。
「……はぁ、仕方ない。全員で探しに行くぞ」
遥音のため息を皮切りに、透巳たち文芸部員はゆなを探しに教室を後にする。遥音は明日歌にゆなとはぐれたことに気づいた場所まで案内してもらい、そこからは手分けして捜索することになった。
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三十分もの間学校中を探し回った透巳たちだったが、ゆなは一向に見つからずいよいよ焦りが見えてきた頃。当のゆなは一人、まだ慣れない青ノ宮学園の廊下を忍び足で進んでいた。
そんなゆなの表情は暗く、どこかに迷いが滲んでいる。それでも彼女の歩みが止まることはない。まるで操り糸の奴隷でしかない人形の様に。彼女の行動を制限する者はこの場にいない。
虚な目でゆなは多目的室と記されたルームプレートを見上げる。ゆなは両手で扉を開くと、腫れ物を扱う様にして床に足を乗せていく。
そうしてじっくり時間をかけて辿り着いたのは、遥音が普段使用している机の前だ。机の鞄掛けには遥音の学生鞄がぶら下がっていて、ゆなはそっと震える手でそれを掴もうとした。だが――。
「ゆなちゃん?」
「っ……すみ、お兄ちゃん」
ガラッと心地よい音と共に現れた透巳によって、ゆなの手は背中へと引っ込む。ゆなの焦りとは対照的に透巳はゆなを見つけられたことで安堵している。
「ゆなちゃんなら一人でも戻って来れると思って。来て正解だったよ」
「め、迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑じゃないよ。心配はしたけど。そもそも明日歌先輩が目を離したのが悪いんだし」
俯いて、消え入りそうな声を発したゆな。透巳にはそんなゆなの相好を覗くことができない。ゆなには誰かから心配されるという感覚が分からない。親から教えてもらわなかったそれを、彼女に納得させるのは難しいことだろう。
それでも透巳はそれを言葉で伝えた。俯く彼女のつむじを撫でながら。
「……ごめんなさい」
「……?」
その謝罪が一体何に対するものなのか、透巳に正確なことを知る術はない。心配をかけたことに対してなのか。心配をかけたということを上手く理解できないことに対してなのか。あるいは他の何かなのか。
透巳はそれをあえて聞くことはしなかった。聞いてしまえば、ゆながどこかに消えてしまいそうな、そんな嫌な予感があったから。
その後、透巳の連絡で多目的室に集まった明日歌たちはゆなの無事を確認するとホッと胸を撫で下ろし、明日歌はウザいほどゆなに謝り続けた。
そうして文化祭は無事幕引きとなり、ゆなは普段と変わらず透巳たちの自宅へと帰宅するのだった。
********
慧馬は透巳からの報告を受け、ゆなが一体どこの誰の子供なのか調べようとした。だが、分かっているのが年齢と名前だけではなかなか骨が折れる様で、未だに彼女のフルネームも分からず仕舞いだった。
児童虐待の通報などの情報も当たってみたが、該当するものは無く慧馬は八方塞がりに陥っていた。
虐待の被害に遭っていたゆなのためにも、慧馬は一刻も早く事件を解決したいと思っていたが、情報が少ない状況に思わずため息をついてしまう。
そんな慧馬に追い討ちをかける様に、廊下の窓から辛辣な西日が差し込む。その橙色に目を細めていると、慧馬は目の前から遥音の父――警視総監である結城慎一がやって来るのに気づき思わず飛び上がった。
「警視!お、お疲れ様です!」
「ん?……あぁ、一課の成川か。久しいな」
「はい!自分のような者を覚えてくださって光栄です!」
勢いよく敬礼した慧馬を一瞥した慎一は、すぐに彼が一課の刑事であることを思い出し挨拶をした。
慧馬は内心、二重の意味でヒヤヒヤしている。一つは警視庁のトップと対面したことによる緊張。もう一つは今現在遥音たちが保護しているゆなのことを、何かの勢みで慎一に勘づかれてしまうかもしれないという不安である。
遥音にとっても、慧馬にとっても、ゆなのためにも。今慎一にこのことがバレるのはデメリットしかない。なので慧馬は心臓をバクバクと鳴らしながら敬礼のポーズを維持している。
「そういえば最近息子が世話になったようだな。アイツからお前の話を聞いたぞ」
「……は、はい!その節は息子さんにご挨拶させていただきました」
慎一が話題に出したのは、百弥が冤罪を被った際の喫茶店での件である。だが慧馬は一瞬、もうバレてしまったのではないかと勘違いしたせいで、生きた心地がしていない。
「あれは堅物すぎてつまらん奴だっただろ」
「えっと……そうですね。とても真面目で、好感の持てる青年でした」
慧馬はこの時、さっさと挨拶を済ませて退散しなかったことを酷く後悔した。何故なら慎一の遠回しすぎる息子自慢が始まることを予期したからだ。
慎一は自分の言葉で遥音を褒めることが滅多にない。だが決して遥音のことを嫌っているわけでも、遥音に褒めるべき秀でている部分がないと思っているわけでもない。ただ素直に褒めることができないだけだ。
なので彼の部下たちは、毎度毎度慎一の言葉の真意を解読した上で肯定しなくてはいけないのだ。ちなみに先刻の発言を訳すと、『真面目で優しい良い子だろう』である。
最早ご機嫌取りではなく通訳の仕事である。
「そうか。また愚息に会う機会があれば、よくしてやってくれ」
「も、もちろんです!」
慧馬の威勢の良い返事を聞いた慎一は満足気に頷くと、その場を悠然と立ち去る。そしてそんな慎一の背中が見えなくなると、慧馬は思いきり深いため息をついた。
この数分間のやり取りだけで普段の数倍の心労を負った慧馬は、キリキリと痛む胃を片手で抑えつつ仕事に戻るのだった。
次は明後日更新予定です。
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