学園改革のメソッド1
西日が沈み、夜が顔を出し始めた午後六時。東京、季節は桜の花びらが地面に敷き詰められた頃。
場所はとある高校の正門前。高校の名前は〝青ノ宮学園〟。この地に住まう者なら知らぬ者はいない名門校である。
成績優秀者、才能に溢れた者のみが入学を許されるこの学園は、学園関係者以外にとって謎の多いことでも有名だった。
学園のホームページはあれど、学園での活動や生徒の実績などは公にせず、常に沈黙を貫くような不可思議な学園だったのだ。
そんな高校の正門前で一人の少年が佇む。意味もなく空を見つめながら。
少年は身長約一七五センチ。大体日本の成人男性の平均身長よりほんの少し高い程の背丈だ。夜風に揺れる黒髪はうなじあたりで切り揃えているが、前髪だけは異様に長かった。長すぎる前髪は少年の目元を隠すには十分で、窺えるのは鼻先から下だけだ。
何故少年がそんな鬱陶しい髪型をしているのか?視界は大丈夫なのか?疑問は多々あるが確かなことが一つある。それは少年がこの髪型に何の文句も感じていないということである。
少年はすぐ傍にある高校の制服に身を纏っていて、青ノ宮学園の生徒であることは一目瞭然であった。この高校は学年ごとにネクタイの色が異なり、少年は一年生の印である紺色を身に着けている。
少年の名前は神坂透巳。今年の四月に青ノ宮学園に特待生枠として入学した新入生である。
「――にぃー……」
そんな透巳の耳に震えるような子猫の鳴き声が届く。だが透巳の近くに子猫の姿はない。夜の狭まれた視界では捉えられない程度に離れた場所にいるのだろう。
だがそんな場所からの鳴き声に透巳が反応できたのは、彼の聴覚が人並外れているからではない。彼にとってその音は、他の何と比べても勝るとも劣らないほど重要なものだったからだ。
透巳は子猫の鳴き声のする方へと歩を進めると、己の足下で震えながら体を丸めた子猫を発見した。子猫はアメリカンショートヘア。段ボールに入っている様子から捨て猫なのだろうという予想が簡単につく。
子猫は素手で触るのを躊躇う程汚れていて、本来の毛の色を窺い知ることはできない。
「どうしたの?可愛い子猫ちゃん」
「にぃー……」
だが透巳は全く気にすることなく子猫を抱きかかえると、自分の目線まで持ち上げる。その表情の全てを窺うことはできないが、口角は柔らかく上がっており、透巳が満面の笑みで子猫を見つめているのは明らかだった。
透巳に抱き上げられた子猫は命の灯を燃やすために、必死に鳴き声を出し続けていて、その懸命な姿に透巳の心は動かされる。
だがそんな透巳の笑顔は子猫の身体をじっくりと眺めた時点で消え去る。透巳は子猫が所々怪我をしているのを見つけたのだ。
子猫を抱き上げた透巳の手には子猫のものと思われる血液が付着し、透巳は血痕の状態を隅々まで観察した。
子猫の血はまだ液状で、ついさっき怪我をしたかのように全く乾いていなかった。同時に透巳は思い出す。子猫に歩み寄る最中、僅かに聞こえた若い男たちの笑い声を。その下劣な声の中には〝猫〟〝汚い〟という単語も含まれていたので、その声の主たちが犯人であるのは誰の目にも明らかだった。
「ふむ……」
子猫の部屋と化している段ボールの近くにあった落とし物。それは透巳と同じ学校の生徒手帳で、先刻の若い男のうち一人のものだと予想できた。
だがその生徒手帳が誰のものなのか、それは夜の狭まれた視界では透巳にしか窺うことはできない。
「子猫ちゃん、このクソに苛められたの?」
「……にぃ?」
透巳は生徒手帳の写真を子猫に向けて尋ねた。言葉を理解できず、まともな返事をすることも出来ない子猫はどこか当惑した様に鳴く。だがそれを肯定だと受け取った透巳は「心得た」と言わんばかりの笑みを浮かべる。
「あれ?子猫ちゃん、よく見たらねこちゃんに似てるね」
猫に対して〝ねこちゃんに似ている〟なんて、臍で茶を沸かすようなものだが、透巳は至って本気だった。何故なら透巳にとって〝子猫ちゃん〟と〝ねこちゃん〟には大きな違いがあったからだ。
透巳はその〝ねこちゃん〟なる存在のことを思い起こし、破顔一笑する。
「子猫ちゃん、うちの子になる?」
「にゃあ……」
透巳は子猫の身体を己の顔に擦り寄せると、子猫にだけ聞こえる声で呟いた。子猫はそれに返事するように透巳の顔をぺろぺろと舐めると、嬉々とした鳴き声を上げた。
その時、透巳が凍てつくような不敵な笑みを浮かべていることに、気づいた存在はどこにもいなかった。
********
それから約一か月後。朝日が眩いほどに青ノ宮学園の校舎を照らす中、たくさんの生徒たちが登校している。
そんな有象無象の中には、モブと言われても仕方のない容姿の透巳も止まることなく歩を進めていた。
透巳は小さく欠伸をしながら靴箱を開いて黒のスニーカーをしまう。そして流れるように上履きを取り出し床に置くと、目の前に広がった光景に透巳は思わず首を傾げた。
「わぁお、デンジャラス」
その光景をどうしたものかと透巳が思考していると、後ろから聞き覚えの無い女子の声が透巳の耳孔を刺激した。
声の主はこの高校の女子生徒で、二年生の証であるベージュ色のネクタイを身に着けていた。つまりは透巳にとっての先輩である。
身長は約一六〇センチ。彼女は腰まで伸びた黒髪を揺らしていて、髪の右側だけを耳にかけ落ちないようにヘアピンで留めている。ぱっつん前髪の下に可愛く配置された瞳はどこか勝ち気で、漆黒の中には光るものが窺える。
彼女の名前は暁明日歌。総称すると美少女と呼んで相違ないような、色白の女子生徒だ。
そんな彼女がデンジャラスと称した理由は、一目見れば分かるほど単純明快だった。
透巳の上履きの中には両手で足りない程の画鋲が散りばめられていて、ご丁寧に全ての画鋲が針の部分を上向きにされていた。
「この画鋲って、貰ってもいいんでしょうか?」
「少年、変わった感性だね」
上履きの中から丁寧に画鋲を拾い集めた透巳は唐突に呟いた。この状況を悲観することなく、本気でそんなことを言い出した透巳に、明日歌は頻りに瞬きをして評価した。
「……そういえば誰ですか?」
「少年もしかして天然?」
かなり遅れて明日歌に尋ねた透巳。我が道を行く透巳に明日歌は未知の生物を見るような目を向ける。
「私は暁明日歌。二年F組の生徒だよ」
「F組?」
今朝の朝日に負けない程の満面の笑みを浮かべた明日歌。そんな明日歌の発した〝F組〟という単語に透巳は僅かな違和感を抱えた。何故ならこの青ノ宮学園において、一年から三年全てのクラスがA組~E組までしか存在していないからだ。
「うん。もし苛められてるなら、F組に入ることをお勧めするよ」
そう言い残した明日歌は透巳の教室とは別方向に歩いていき、透巳はその背中を何やら思案しながら見つめる。
この出会いが、この学園で起こるとある事件に深く関わることを知り得た存在は、そう多くない。
********
その日、暁明日歌は非常に機嫌がよかった。何故なら自分たちの仲間に加わる可能性のある存在を、その日の始まり早々に見つけることができたからだ。
「明日歌。朝っぱらから気持ち悪い笑みを見せるな。不愉快だ」
「あれ?遥音だぁ、今日は遅かったんだ」
嬉々とした表情は、ある一人の人物からすれば気持ちの悪いものだったらしい。スキップをしながら〝F組〟の教室へ向かわんとする明日歌の後ろから、一人の男子生徒が不快感を露わにした相好で侮辱した。
だが明日歌にとってそれは日常の一ページでしかなく、慣れてしまえば挨拶のようなものだった。全く気にすることなく声の主を特定した明日歌は、珍しく自分と同じタイミングで登校してきた男子生徒に返事をした。
男子生徒は身長約一七〇センチ弱。若干茶色がかった黒の短髪、黒縁眼鏡をそつなく身に着けている。まさに優等生といった感じの容姿のその生徒は、明日歌と同じ二年のベージュ色のネクタイを締めている。
その生徒の名前は結城遥音。明日歌とは中等部からの腐れ縁で、二年生成績トップの秀才である。
「運転手が体調不良で休んだ。だから歩いてきたんだ」
「大して距離ないんだから毎日歩いてくればいいのに。この金持ちめ」
明日歌の言う様に、結城遥音という男はそこそこ経済力のある家の人間だ。遥音の父親は警視庁で警視総監を務めており、遥音も将来優秀な警察官の道を期待されているのだ。
そんな遥音に運転手がついているというのはごく自然なことだが、学校まで一キロ程度しかない通学路なので、明日歌の意見も尤もだった。
「馬鹿なのかお前は?いや、馬鹿だったなお前は。運転手の仕事を奪ってどうする。あの男の人生を終わらせたいのか?」
「いやあの男って言われても、私遥音の運転手さん見たことないし」
疑問形から何故か馬鹿だと断定されてしまった明日歌は、やはり気にすることなく会話を続行する。明日歌は遥音と会えば一日に一回以上馬鹿だと罵られているので気にする方がおかしいのだ。
因みに暁明日歌という人間の学力はそこまで低くはない。寧ろ高い方で、遥音に次いで学年二位という成績を収めている。
だがそれぐらいのこと、遥音だって承知の上である。遥音は明日歌の勉学ではなく、言動や生き様に対して侮辱しているのだから。
「お二人さん、相変わらず仲いいっすね」
「おいクソピーマン。どこをどう見ればそうなるんだ、眼科に行け」
「眼鏡かけてるアンタに言われたくないですよ」
「兄さん、二人を揶揄うのはやめなよ。そのうちピーマンより酷いあだ名付けられるよ」
遥音と明日歌の会話に割って入ってきたのは二人の男子生徒。一見しただけでは区別することも出来ない程似た容姿をしているこの二人は双子で、一年生の印である紺のネクタイを締めている。
最初に遥音を茶化したのは双子の兄、関口巧実。薄い茶髪をマッシュルームカットにしていて、前髪の下に配置された三白眼がどこか他人を見下しているような印象を覚える。
ちなみに〝ピーマン〟というのは巧実のあだ名で、明日歌が巧実に出会ったばかりの頃、とある愚行に対する罰ゲームとして命名したものだ。
一方、双子の弟の名前は関口宅真。巧実と全く同じ髪型、同じ容姿だが、兄とはどこか違う雰囲気を纏っていて、優しく物腰柔らかそうな少年だ。
この二人は身長まで一緒で、両者一七〇センチ強と言ったところだ。大体日本の男性の平均身長とほぼ同じぐらいだろう。
「お、関口ブラザーズおはよう!ピーマンより酷いあだ名って何だろうね?ダンゴムシ?」
「マジでやめてください」
双子兄弟に満面の笑みを向けた明日歌は、巧実のあだ名について思考を巡らせた。そんな明日歌に苦笑いを向けた宅真とは対照的に、巧実は本気でやめて欲しそうに顔を引きつらせている。
「姉貴、やっと見つけた」
明日歌、遥音、巧実、宅真の四人が目的地である〝F組〟の教室に到着すると、明日歌の背後からのんびりとした声が響いた。
声の主は明日歌の背に凭れかかっていて、彼女の顔を左側から不満気に見つめている。これは彼の定位置なので、遥音たちにとっては見慣れた光景である。
明日歌を姉貴と呼んだ男子生徒は暁兼。もちろん明日歌の弟で、この高校の一年生である。身長一八五センチという高身長に、明日歌と同じ黒髪を少し長めに切り揃えている。前髪も少々長く、漆黒の瞳は髪の隙間から僅かに窺える程度だ。姉弟そろって整った容姿であることは間違いないが、明日歌ほど目立つことは無く寧ろ地味な方だ。
「置いてくなんて酷いよ姉貴」
「兼が寝坊するからいけないんじゃない。お姉ちゃん悪くないもん」
本日毎度の如く寝坊をしてしまった兼は、明日歌に置いていかれたらしく、一人で登校する羽目になったのだ。だが明日歌からすれば寝坊常習犯の兼が完全に悪いので、頬を膨らませながら反論した。
〝F組〟の教室は東校舎の四階、使われていない多目的室である。ここなら誰にも文句を言われない上、そこそこの広さと空調設備の整ったこの空間は、〝F組〟にとって最適なものだったのだ。
そんな〝F組〟の教室の扉に明日歌が手をかける。そんな明日歌に続いて、他四人の男子生徒が慣れたように〝F組〟の教室へ足を踏み入れた。
この計五人が〝F組〟という謎に包まれたクラスの生徒なのだ。
「ていうかさ、この集団男多くない?もっと可愛い女の子が欲しい!」
「明日歌がこのメンバー集めたんだろうが。記憶までおかしくなったのか?」
現在の面子をぐるっと見回した明日歌は、ふと思い立ったように不満を口にした。だがそんな明日歌に即座にツッコみを入れる遥音。
他の男子生徒たちも同調するように頷いており、明日歌が劣勢であるのは間違いない。
「はっ!そういえば今朝見つけた逸材も男だった!不覚!」
「お前アホなのか?あぁすまん。アホだったな」
ぐうの音も出ない明日歌を更に苦しめる事実を彼女は唐突に思い出してしまった。今回に関しては遥音の侮辱も頷くほかない。
「逸材って、その人苛められてたんですか?」
明日歌が逸材と称しただけで、透巳が苛められていた事実を見抜いた宅真。だがそれは宅真の推理力が優れている訳ではない。
〝F組〟と暁明日歌という人間の特性を知っている者なら、簡単に予想ができる事案なのだ。
「うん。でも全然気にしてなかったなぁ。あとちょっと兼に似てた」
顎に人差し指を添えて、透巳の様子を思い起こした明日歌は彼の特徴を伝えた。例えに出された兼は自分を指差して首を傾げる。そんな兼の無言の問いに首肯した明日歌。
この様子から、二人の姉弟としての意思疎通能力が長けているのは一目瞭然だ。
「天然系か?」
「そう、それ!」
兼のことを明日歌程では無いにしてもよく知っている遥音は、見たこともない透巳の性格を言い当てた。こうやってすぐに理解してくれる遥音の優秀さが、明日歌はかなり気に入っているのだ。
何気ない会話が繰り広げられる中、いつも通りの〝F組〟の日常が始まろうとしている。
次は明日更新予定です。
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「dark blue」「さよなら世界、ようこそ世界」という完結した異世界作品もありますので、もし興味があればチェックしてみてください。