8.月のかんざし
車に戻ると息をするのが楽になった。神城様の屋敷にいる時はいつも息苦しい。
「天音様……?」
心配そうな唯香に私はぎこちない笑顔を向けた。
「大丈夫よ。問題ないわ」
「……そうですか」
それ以上なにも聞いてこず車を発進させる唯香に感謝しながら、私は窓の外に視線を向ける。
赤津様の言っていたことは当たっている。
最初に神城様を視た時に、彼が早坂さんを捕まえてどうする気かわかった。
盗んだお金が戻って来たとしても見逃さないだろうし、彼が言っていたような末路を辿る可能性が高い。
それでも……早坂さんの未来が他にもあるんじゃないかと望んだ。
神城様の権力はとてつもなく大きい。警察ですら黙らせる事ができる。彼に狙われればタダでは済まない。
今回の行動は自分の首を絞める行為だったが、どうしても放っておけなかった。
結果、赤津様に目をつけられた。そして、神城様も私の考えを見抜いたからこそ、彼を仕事のパートナーに指名したのだ。
これは私の甘さが招いた結果で、受け入れるしかない。
願わくは、早坂さんの奥さんが渡した紙に書いてあった医者の元を訪れて、娘さんが歩けるようになることを祈るしかない。
例え、彼ら親子が二度と会うことがなくても……。
こういう仕事を受けるのは憂鬱だ。できればこんなことに力を使いたくない。
けれど、そうしなければ犬塚家……いや、霊術師は生き残れないのだ。
その昔、霊術師としての力を過信し、自らが頂点に立とうとした霊術師がいた。
力を使い、人を操り、政財界を牛耳ろうともくろんだ。だが、彼はあっさりと他の権力者達に潰された。
その霊術師の家自体が歴史から消滅したのだ。
いくら力があっても、本物の権力や多勢には敵わない。
それからの霊術師は権力者の庇護の下、ただ力を使い続けることになった。
庇護がなければ、霊術師はいともたやすく蹂躙されるだろう。
私たちは歴史の間をはいつくばって、生きながらえさせてもらっているに過ぎない。
私たちはそうやって生きているのだ。その事実はどれだけ望んでも変わらない。
屋敷に戻ると、家政婦の芳江さんが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、天音お嬢様」
「ただいま戻りました」
「お疲れさまです。すぐにお茶を淹れますね」
「ありがとう」
私はそのまま居間に向かった。椅子に座りやっと落ち着けた。
やはり家はいい。
とはいえ気を抜いている場合ではなく、今後のことを考えておかなければならない。
神城様と赤津様の件を両親に話すべきか否か。
今のところは、大きな問題はないように思えるが、今後どうなっていくのかわからない。
すぐに神城様に切られるような事はないはずだ。彼は私の力を気に入っている。
上手く動かないと判断した場合、切られる可能性は充分に考えられる。
顧客は彼だけではないので、切られてすぐに窮地に陥りはしないが、彼に準じて犬塚家を切るところは出でくるかもしれない。
そうなるとかなり厄介だ。
脳裏に大樹様の顔が浮かんだ。彼なら手を貸してくれるだろうが……できれば頼りたくない。私たちは一定の距離を保たなければならないのだ。
そんな事を考えていると、芳江さんが慌てた様子で戻って来る。
「お嬢様、お嬢様!」
「どうしたの?」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
「大樹様がいらっしゃいましたよ」
今日は彼と会う予定ではなかったけれど、来てくれたのに追い返すわけにもいかない。
「……分かったわ。こちらにお通しして」
返事をすると芳江さんが大きくうなずいた。
「かしこまりました。大樹様のお茶も用意いたしますね」
「ええ、よろしく」
一体どうしたのか?彼が約束もなしにいきなりやって来ることは珍しい。
しばらくして、芳江さんの案内で彼がやって来た。
「いらっしゃいませ、大樹様」
「突然来てすまない。天音がいなかったら帰ろうかと思ってたんだけど」
申し訳なさそうな大樹様に、私は椅子を指し示した。
「どうぞ、お座りください。今芳江さんがお茶を淹れてくれています」
「ああ、すまない」
大樹様は私の向かいの席に座った。
「今日は何かご用があったのですか?」
「あ……いや。その、これをたまたま見つけて天音に似合うと思ったんだ。この近くを通りかかったから、もし君がいたら渡そうかと」
大樹様は私に小さな袋を渡してくる。それを受け取り中身を取り出した。
「まあ、素敵」
それはかんざしだった。
玉かんざしで先端に月のような丸い黄色の玉が付いている。その月に桜の花が散りばめられており、とても可愛らしいものだ。
「とても嬉しいです。可愛い」
「そうか。喜んでもらえて良かったよ」
大樹様は安堵した様子でニコリと微笑んだ。
「ありがとうござます。大切にしますね」
「そう言ってくれて嬉しいよ。良かったら使って欲しい」
「はい。もちろんです」
嬉しくて頬を緩ませる。その瞬間、思い出す姉の言葉に私は表情を強張らせた。
駄目ね、こんなんじゃ。
優しい婚約者それ以上を望んではいけない。
芳江さんが部屋に入ってきて、大樹様と私の前にお茶と大福餅を並べてくれた。
「美味しそうだね」
大樹様の言葉に、芳江さんが自慢気に答える。
「そうでございましょう? 『花いちげ』の大福餅は有名ですからね!」
「ああ、その店なら聞いたことあるよ」
「さすが甘党の大樹様、よくご存知で!」
嬉しそうな芳江さんに、大樹様は少し照れ臭そうに笑った。
大福餅はモチモチしていて、中の餡子も上品な味でとても美味しかった。憂鬱な気持ちが癒されていくようだ。
「ねぇ、天音。仕事の方で困ったことはない?」
思わず手を止めてしまった。頼りたいという気持ちを押し殺し、私は平静をよそおう。
「困ったことがなどありません。順調です」
なにごともなかったように、大福を食べる手を再び動かした。
大樹様に余計な心配をかけるわけにはいかない。
彼は、なんの問題もなく私の婚約者としてふるまってくれている。これ以上の負担を強いるべきではない。
今回のことは自分でケリをつけなければ。
「……そう。それならいいんだけど」
「心配してくれて、ありがとうございます。私も仕事を始めたからには、もう自立した霊術師です。
どんなことがあっても、ちゃんと自分で対処いたします。
一人前には程遠いとしても、霊術師として認められるよう頑張りたいと考えています」
大樹様が私のことで煩わされることはないと心の中で付け足した。
すると、大樹様は困ったように眉をへの字に曲げた。
「天音は真面目だね。けど……そこが危ういと心配になるんだ。私は君の婚約者だ。心配するのは当然だよ」
「そう言っていただけるのは嬉しいですが、本当に困っていることなどありません。大丈夫です」
「……そう」
まだ、なにか言いたげな様子だったが、それ以上はなにも聞いてはこなかった。