技術的知性
人々が、人々の幸福の行く末のためには実は不合理な、技術合理性への規格化の完成を拒絶するためには、規格化によって強いられた利己的に個人的な主観を脱却して、理性によって上記全体像を理解する必要がある。
しかしそれは知的に簡単なことではなく、ありふれてはいない才覚と努力、環境と訓練が必要になる。
そのような、人類にとって全体最適性の知性を、もし知性と呼んでしまえば、そこには尊厳が生じる。
よって逆に、部分最適性の技術的な知性のみに知性の尊厳を見させれば、全体最適性の知性の尊厳はキャンセルできる。
そのためには、学歴主義を確立すればよい。学校の成績が知性であって、そうでなければ知性でないと定めればよい。
そうすれば人々は、互いの知性を自ら測るのではなく、肩書きによって知性を測るようになる。所得によって能力を測るようになる。権威主義は行き渡り、恐怖によって規格化は完成する。
しかし実際には、技術的な知性は知性ではない。
知性とは幸福を増加する知的能力にほかならないが、技術的知性それ自体は、人間社会の技術合理性への規格化を助長するものでしかないからである。しかし、部分最適性に埋没する規格化された人々においては、各々の経済的利益の追求が優先されてそれが認知されない。
つまり、規格化された人類の認知の上から、知性と呼ぶべき知性を完全に消去することで、人類幸福の復興の芽を断つ形で、社会の規格化を完成できる。