旅の縁
俺は飾り気もない動きやすい服装と簡単な荷物を用意して、その日のうちにひっそりと旅立った。今更だが、最初に着てた露出ばかり高いドレスは、扱いに困ってとっくに焼き捨てた。行くあてもないのであるが、とにかくコロシアムに行って名を挙げたいというのがあって、あらかじめ聞いていたところによれば、船に乗って一日東に行けば着くという、パトラという大きな街にはそれがあるらしい。
ただそちらへの船はなかなか出ない。陸路でも行けないこともないが、非常に大回りになるため、一週間はかかってしまうし危険もある。まあ、お金もないし、縁もないし、急ぐこともないし、危険は望むところだし、という感じなので歩くことにしよう。
しょうがないがその日の夜の出発になってしまって、冷静に考えたらもう一日泊めてもらった方が良かったようではあるが、戻るのもかっこ悪いし……別れが面倒になる。……門はすでに閉められている。これまたあんまりかっこいいものじゃないし、神がやることじゃないんだが、城壁の上から飛び降りることにしよう。外から侵入するのは難しいが、中からならそれでどうにか出られるわけだ。それでも数メートルはあるから普通の人では大怪我を負う可能性がある。俺はもちろん平気だよ。
町の外の近い場所は多少の手入れが入った草原が広がっている。ちょっと歩くと林があって、夜の鳥がどこかで鳴いていて、何か寂しさを感じる。風が吹いて木の葉がさざめいている。俺は別に夜だろうが星が出ていれば目は見えるし、疲れはないわけではないが、なんなら謎パワーで回復できるから、飽きるまでは歩ける。
街道に沿ってずっと歩いていると、ちょうど朝になる頃に、今までいたところより一回りぐらい小さな町についた。槍を後ろの壁に立てかけて、門番が二人立っている。
「やあ、お仕事ご苦労さま。通してもらえるかな?」
と俺は気安い感じで声をかけた。
「おはよう。こんな早い時間に到着とは珍しいな。……それも女の一人旅……か?」
「あぁ、ちょっと事情があってね、ここの南の町から来たんだけど……。うーん、まあ、すぐ手前で野宿したんだよ。旅費を浮かしたかったから」
ちょっと考えたが、そこは嘘をついた。真面目に説明してもわけがわからん。
「危険だろうに、よくやるな。いつか襲われても知らんぞ」
「大丈夫、大丈夫。こう見えても俺は強いんだよ。めっちゃくちゃにね。だからむしろ、なんか力が必要な仕事があったら教えてくれよ。山賊とか、バケモンが出てきたとか、ないか?」
彼らの目が気の毒な人を見るような目になった。
「お前は、魔女かなにかなのか……?」
「神だよ。レナスっていうんだ」
「あ、ああ……そうか。もう通っていいぞ。面倒事は起こさないように……というより、お前を一人でいさせていいのか、不安でしょうがないけど。どこまで行くのか知らないが、誰か一緒に旅する人を探した方がいいと思うぞ」
「考えておくよ。ありがとう」
すでに町中に歩き出しながら、俺はひらひらと手を振って答えた。
とりあえず、朝食を取ろうと思い、適当な広い道に面して建っていた店に入った。それほど人は多くなくて、悠々と座って朝のセットを頼んだ。体が大きくないおかげでちょっとの量でも十分である。食後に苦いコーヒーを飲んだ。食事だって物理的には取らなくても平気といえば平気なんだけど、精神がすり減っていく。おかしな話のようだが、自分の力は物理的な要素を操作することはできても、人の心を操作することは不得意である。自分の心も同様だ。それができればどれだけ簡単だったことか……。
暇そうにしてる中年の女性店員と少しおしゃべりをした。目的地がどこだとか、所持金がこれくらいあるとか、話をしたら、とてもそれじゃあ足りない、途中で尽きると言われてしまった。
「じゃあどうすればいい」
「お客さんは、別にその……道々なにかして稼ぐってわけじゃないんでしょう? 例えばどこかの商人組合に入ってたら運び仕事とかもあるかもしれないけど、何もなしだなんてねえ……本当に変わった人だね」
「生きていくだけならどうとでもなると思ってたから、何も考えてなかったなぁ。今も、それならそれで別にいいかと思ってるがね」
「なにかないのかな、織物が作れるとか、料理は上手とか。町にいる商人がたと同行させてもらえるような特技みたいなのなんかさ」
「力が強い。戦いでは必ず勝つ。俺はコロシアムってとこで名を挙げたいんだ」
「はぁ……話には聞いたことがあるよ。怖いところなんじゃないのかね? 怪我もするだろう?」
「うーん、下手したら人が死ぬ場所かもしれないね。もちろん、俺が出る以上は誰も死ぬことはないけどな」
「あんた、そんなに強いの?」
「例えば……そうだなぁ、この机を、あ、ちょっと離れてな」
と言ってそれを片手で持ち上げてみせると、店員は腰を抜かした。
「驚いたねえ! これ、男が二人がかりでやっと動かすぐらいのもんだよ! 見かけによらないもんだね。その細い腕でなんとまあ……ああびっくりした」
「なんならこのまま模様替えしたっていいくらいだぜ」
その提案は断られた。
店員に教えてもらった、旅商人たちがたむろしているという市場の建物へやってきた。さすがに活気があり、そこらじゅうで金と物とやり取りが行われている。誰がどういう人間なのかが自分にはわからずに、ただ外に馬やロバが繋がれているのに興味を持った。穀物とか衣類とか、そういったものを担がされているようだな……と思いながら適当な人懐っこそうな馬をなでてみると、急に怒鳴られた。
「おい、そこの娘! 俺の馬に触るんじゃない、荷物にもだ」
大きな帽子をかぶった小男が駆け寄ってきた。目の前に立つと身長は俺と同じぐらいだ。とはいえ、体型は引き締まっていて旅の中で鍛えられているようである。
「ああ、すまない。悪気はなかったんだ、ちょっと馬に触ってみたくてさ」
「怪しい動きをするんじゃない。お前は何者だ? 商人ではなさそうだな」
いやらしい目でこちらの体をジロジロと見るのを気にせず、俺は話を進めた。
「商人さん、旅は一人か? それとも人を雇ったりすることはあるか?」
「へぇっ、そりゃどういうことだ」
「……いや、単純に、護衛がほしいと思うことはないかとね。腕に自信がある。もしも東に向かうなら俺を雇ってほしいんだ」
「悪いがそれなら逆方向だな。だいたい、他の目的ならともかく、なんでお前のようなのを護衛にしなければならん。おととい来やがれってもんだ」
相手がぷりぷり怒ってこちらの肩を突き飛ばし、俺はムッとしてそいつの前から離れた。
難しいものだなぁ、やっぱり、一人旅で十分だ。何よりこの外見がいけないんだ、と思うと急にムカムカした苛立ちを感じた。もっと強そうに見えるようにできねえのかよ、と。これじゃ医者を名乗った方がはるかにいいようだがその手だけは避けたい。それだけは……避けたい……。
「お嬢さん、お困りですか?」
木陰で考えていると、別の男性から声がかかった。彼はいかにも紳士という雰囲気で礼儀正しく、こちらも襟を正す気持ちになった。
「ええ、東の大きな街、ええと、パトラっていうところに行きたいんですが、旅費の問題が出てきましてね……。俺を労働力として雇っていただける人を探しているんです」
「ほう、パトラですか? 私もそこへ行こうとしてるところです。私はただの出稼ぎの商人でしたが、出先で結婚しましてね……子供も生まれ、生まれ故郷へ帰ろうというわけなんです。あちらにいるのが妻と息子です」
手のひらで示された方を見ると、確かに美しい婦人と、その周りを元気いっぱいの少年が走り回っていた。少し御婦人は構い疲れてしまったのか、ただ立ったままで子供を見守っている様子であった。
「なるほど、それは、もしもお邪魔でなければご一緒させていただけますか? 俺は力仕事もしますし、戦いもできます。今、武器がちょっとないんですが、木の棒でもあれば十分だし、素手でも問題ないです」
「私もご同行をお願いしようと声をかけさせてもらったんですよ」と笑顔で彼は言った。「だけど、戦いなんてする必要はありませんよ、いざという時は逃げましょう。馬は操れますか? ちょうど二頭いますから、荷物を捨てればそれぞれ二人ずつ乗って逃げられるでしょう」
「ええ、馬も問題ないです。ちょっと久しぶりなので練習はさせてもらいたいですが。それに、俺は強いですから、逃げる必要こそないと思いますけどね」
どうしても相手にはそれが理解できなかったようだが、とにかくパトラまで一緒に旅をすることに決まった。彼は自分のことをアレクシス・パパドプーロスと名乗った。