小さな出会い
なぜ今までこれを知らなかったのか。客から聞いた話によると、大きな街にはコロシアムがあり、そこでは剣闘士が金と名誉を競って血みどろの戦いを行っているのだという。行くしかないだろう。そこで名を挙げてやる。いや、レナスという名はこの上なく挙がっているけど、男らしい英雄としての名を、取り戻すんだ!
しかしそれにはお金がかかる……まず旅費だけでも、今の所持金だとまだちょっと足りない。マルコのやつが苦労するわけだ。急ぐことはないが、それにしてもどうにか儲け話でも落ちていればいいのにな。なんて思いながら、俺は休日に町を散歩していた。
教会がある。なんとなく避けていたが、考えてみると俺の家のようなものである。正確にはさらに上の存在を崇めているのではあるが、俺はその下といえど人間の神として、当然、最も人気がある。オークとか、エルフとか、あるいは獣人や、魚人族などはいるが、彼らの神に納まりたいとはあまり思えない。
俺が降りてきたこの町は人間の国でもそういう異種族の住む土地からは遠い場所なので、あまり遭遇することもないだろう。魚人が実は海の中からひっそり遊びに来ていることはあるようだが。彼らは共存することは根本的に不可能で、下手したらただの食料でしかなかったりする。人間ときたら個々で見たら多分相当弱い。けど、代わりに団結できるのが強みだ。種族にもよるが、頭が悪いというか会話ができても不器用すぎて字が書けなかったりすることもあるから。神々の側としてもお互い不干渉の今が一番都合がいい。それが世界のバランスというものだ。
さておき、俺の教会を覗いてみるが、今は誰もいないようだった。人がいるとちょっと苦手だが、無人ならこの清浄な空気は嫌いではない。そんなに大きくなくて、詰めれば20人ぐらいは入れるというところか。慈愛に満ちた眼差しで、怪我をしているらしき兵士を胸に抱きかかえる美しい女の絵が壁にかけられている。これが俺だ、俺なんだああ……。これらをすべて壊してまわれば済むのではないかという衝動にかられるが、人の信仰を物理でどうこうしようとしても仕方ない話だし、さすがに犯罪だ。
などとよもやまに考えながら行儀よく椅子に座って休憩をしていると、子供が一人入ってきた。俺のことは目に入ってない様子で、その飾ってある俺の絵に向かってしゃがみ込み、手を合わせ熱心に祈っている。多分10歳になってないぐらいだろうか、その女の子の小さな指を見ていると、なんだかとてもかわいそうになってきて、つい声をかけてしまった。
「ねえ、どうしたのかな。神様にお祈りして叶えたいお願いがあるの?」
その子は驚いてこちらを見て、さらにまた驚いたようにこう言った。
「えっ、レナス様……?」
子供は本質を見抜く力があるのか、それともなんでも信じ込みやすいのか。この状況、否定すべきか肯定すべきかというのを考えてしまった。というのも、結局自分にはできないことの方が多い。嫌な奴をぶちのめしたり、逆に怪我や病気をちょっと治すことならできるだろうが、それ以外の、たとえばお金がほしいなんてことすらすぐに実現しかねている。そんな状況で下手に難しいことを期待されても失望されてしまうし、ここは妥協するしかない。嘘は武略である。
「私は神様じゃあないよ。でもよかったら、悩み事とかあるなら、聞かせてよ。私にできることなら助けてあげられるかもしれないよ」
「う、うん。実は……」
と話し始めたがなかなかヘビィな内容だった。彼女の名前はオリビアといい、父母と三人ぐらしで、父は漁師をしている。ところが、この間の春の嵐が来た後、真っ先に船を出してから、もう2日も帰ってこなくなってしまったのだという。嵐の後は珍しい魚が取れることがあるとこの辺では言われているそうだから、無理をしてしまったのかもしれない。しかしそれは厄介だ。自分がどうにかできる領域ではない。
「だけど、他の漁師さんたちが探してくれてるってことなんだね。……きっと生きてるよ、無事に帰ってこれるように一緒に神様にお祈りしよう」
うん、とオリビアは頷いて、一緒に神様に祈っていたが、不安にこらえきれずに泣き出してしまった。そっとその頭を撫でているとなぜか俺までも悲しくなってしまって、お互いに抱き合って泣いた。なぜだろうか? おそらくはもうひとつの自分の側面がこの涙を流させているのだ。
(役に立たないな……なんだか……)
俺は少し悄然としながら、少し薄暗くなってきた道を、オリビアちゃんの手を引いて彼女の家まで歩いた。風が少し冷たい。
「そういえば、お姉ちゃんはお名前はなんていうの?」
と綺麗な目で私を見る。
「えっ、ああ……名前ね……私はレナス、っていうんだけど、神様と同じ名前なのよね。最初に言われたのが当たってたといえば当たってるんだけど、変わってるよね。あはは……はは……」
「そんなことないよ、すっごく素敵な名前だと思うよ。私、大好き、神様も、お姉ちゃんも」
私は彼女の手が離れないように、きゅっと握り直した。そうして10分も歩いただろうか。ごみごみした町の一角に、オリビアの小さな家があった。
「ありがとう、お姉ちゃん、またね」
手を振って彼女は家に入っていった。
「ただいま、お母さん! ねえ、お父さん、帰ってきた?」
とすぐに中から声が聞こえるが、返ってきたはずの答えはあまりにも小さすぎて聞こえなかった。
なんだかまっすぐ帰りたい気分でもない。どこかでご飯でも食べて帰ろうか。最近、魚はちょっと飽きたから……肉か……まあなんでもいいけど。
ぶらぶら町を周っていたら、良さそうな店を見つけた。東洋風の料理だな。……入ってみようか……うるさくもなさそうだし……と思って覗き込み、壁に書いてあるメニューを見て引き返した。うーん、一品があんなに高いとは……。やれやれ、と手を上げた。仕方ない、帰ろう。我が住み込み先であるカノアの休憩所、略してカノQがいかに安くておいしいかを思い知らされた。もっとも、今日は休みだけど、まあ残り物とかにありつけるだろうし、なければないでもういいや、なんて思った。
帰った時がちょうどご主人と奥さん、そしてソーニャが夕食を終えた時で、奥さんから「おかえり、あんたはもう食べたのかい」と聞かれた。
「いいえ、どこかで食べようと思ったんですけど、今ひとつ食欲がなくて」
「もうちょっと早く帰ってくればよかったのに。スープだけでも飲むかね?」
「どうもすみません、お願いします」
まったくもう、とぼやきながら奥さんが台所へ行った。俺はその背中をぼんやり眺めながら、ふと気がついて、ちびちびと酒を飲んでいるご主人に、今日あった話を聞いてみた。
「漁師がひとり、行方不明になったって話、聞いてますか?」
「ああ、話だけは聞いてるよ。見つかるかどうか、ちょっと期待できないかもしれないな。何しろ海なんて広いし、どんどん流されていくからな。夜にはとても探すことはできんし……明日、早朝からもう一度探して、それでもだめなら捜索は打ち切りだろうな……」
「だけどよく、そこまで探してもらえますね」
「仲間意識が強いんだよ。自分だって一寸先は闇だから、お互い様ってことかね」
「もしも、俺もその捜索に参加しようと思ったら、できるでしょうか?」
「足手まといになるからやめた方がいい。海のことなんて全然知らないだろう? 多少知ってたとしても、やっぱりベテランに任せるしかないさ」
「そうですね……今日、その漁師の娘と会ったんです。まだこんなに小さいのに、教会で熱心にお祈りしていまして、それで少し話をしました。おじさん、もしもその……生きていてもそうでなくっても、情報が入ったら真っ先に教えてもらえますか?」
「ああ、そうしよう。かわいそうになぁ。飲まないとやってられないよ」
ご主人は毎日そう言っている。奥さんがスープを持ってきてくれたので、礼を言って一口すすった。
「レナスさん、その子は、どんな様子でしたか?」とソーニャが身を乗り出してきた。「その……人が死ぬとか、いなくなるってこと、もうわかってる、わかっちゃってるんでしょうか」
「どうだろうか、わかってないかもしれない。けど、家も見たけど、すごく貧乏そうだった。もしも万が一があったらこれからどうなるのかな……って、嫌な想像しかできないよ」
「レナスさんでも、どうしようもないんですか」
「魂が飛んで行っちゃったら生き返らせることもできないし、それ以前に海の中で見つからなかったら、どうにもならないよ」
「本当に……なんて言ったら……現実って、つらいものですね。ねえ、魂って、飛んでいってもいつかは天国でみんな再開できるんですよね」
「そうだな、きっとそうだと思うよ」
答えてはみたが、その辺は自分もよく知らないのだ。
翌朝、発見されたと情報が入ったと、ご主人からそう聞いた俺は、驚くほどの速さで、港へ駆け出した。
救出した漁師たちによってひとまず桟橋に寝かされているその男は、まだ生きている! かろうじて、生きている。しかし本当に生きていると呼べるのだろうか? 漁師たちは悲痛な顔をしてただその場で呆然とするだけで、まったく手をつけられないでいた。船がバラバラになって、気を失っても板切れにしがみついていたということだが、その顔色はもはや死人のようになっている。それでもまだ生きているのは、漁師としての経験と体力のおかげだろうか。
俺はその人間たちの間を割って入って彼のそばに正座し、すっかり冷たくなっている体を温めるように、抱きかかかえた。そして彼に口づけをすると、まさしく、これこそ奇蹟というもので、青ざめた顔に赤みがかかり、健康な色に戻った。
「ほら、どうだ、人間たち。この奇跡はお前たちの力で起こしたんだ。お前たちが余計な属性を俺に付けたから、こんなことができるようになってしまった。でも、今だけはこれで良かったよ」
男たちは目の前で起きたあまりのことに理解がまったくできず、声も出なかったが、誰ともなく歓声を上げるとみんな声を揃え、いつもやっているようにどこにいるのか知らない海の神と、女神レナスへの感謝を叫んだ。