嵐を避けて
本当のところ、性格的には全然向いてないこの接客業だが、なんとなく客に気に入られてきたようで、どうにかやっていけている。もっと乙女のようにぶりっ子しないといけないかと思ったけど、逆に素で振る舞ってるのが受けたようでよかった。素っていったって、そっちの方が外見から考えるとむしろ異常ではあるが……。
料理とか、メニューもまだあんまり憶えてない分、できることは全力で頑張っていたら、皿を運ぶことに関しては世界一を名乗っていいんじゃないかというぐらいになった。いや、嬉しくもないけど。
書生の店員とも仕事の終わった後なんかに、少しは話をするようになった。といっても、共通の話題がないので、身の上話というか、勉強してどうするつもりなんだ?と尋ねてみると、彼はもっと大きな街で大学に行きたいのだと答えた。
「本がなかなか手に入らないから、大変だけどね……。勉強しながらお金をためて、いつかはここを出るよ」
「ふーん、偉いもんだなぁ。まだ二十歳にもなってないんだろう? よく両立してがんばれるもんだなぁ」
「まだ二十歳……って、君も同じくらいの歳じゃないのか」
「いや、俺は何歳になったかわかんないんだ」
何か同情の目で見られてしまったので、言葉を付け加える。
「言っとくが、別に不幸な生い立ちがとかそんなことじゃないよ。本当にわからないってか、数えてないだけで。そうそう、それと、よかったら、俺がもらうお給金はお前にあげようか。ただ持ってるだけよりその方が有意義だろうから」
彼は瞬間ぽかんとした表情になったが、返事をせず急にせかせかと帰り支度をし始めた。
「仕事も終わったし、もう帰るよ」と言ってから、付け加えるように続けた。「それから君ね、善意のつもりか知らないが、せっかくだけど、僕は理由もなく人からお金をもらいたくはないんだ」
「ああ、そうか。悪かった。でも、応援してるから、がんばってな」
と店の外まで見送って手を振ったが、彼は振り向きもせずいかり肩して帰っていった。
案外プライドの高いやつだ、と感心もしながら店内に戻ると、病気で寝ていたはずのソーニャがパジャマのままで起きてきていた。
「レナスさんは、マルクさんと仲よくなったんですね」
「ん? ああ、マルク……ってあいつのことか。まあ、一緒に仕事してるからね……でもそうでもないよ。怒らせちゃったからね」
「そうかしら。マルクさんも結構最近楽しそうですけど」
とちょっとすねたように彼女は言う。
「なんだ、もしかしてソーニャちゃんは、あいつのことが好きなのか。いいことだ。あれは将来見込みがあるよ」
「そっ、そんな、なにいってるんですか。私なんてそんな……」
と彼女は両手で頬を隠したが、もともと熱で赤みがかった頬がもっと赤くなるのが見えた。まだ動けるようになった程度かもしれないが、彼女の体調が良くなってきて、実にいいことだ。だけどふと思うが、彼女が完全に元気になってしまったら、それがここを出るべき時かもしれない。自分自身はその先のことを今もまったく考えられないでいる。
ある日、嵐を避けて町の港に大きな船が停泊した。この酒場にも大勢その船員がやってきたが、まったくひどい大騒ぎで、常連の客が入れないほどだった。ここに限らずお金をたくさん落としてくれるから、それはそれで歓迎されるのだが、ちょっとマナーの悪い者はいるものだ。
ワイワイガヤガヤと大きな声で騒ぎ立てるのはまあいいとして、食べ方が汚い。残しまくっている。はっきりいうとここの料理は絶品といってもいいぐらいだぞ。と個人的には思っているのだが、俺の比較対象になる経験がいまいち乏しいのは確かだ。
「レナスちゃんは、今は出てかないでいいから。持ってくのはうちと旦那でやるから、後ろで仕事しといて」
と奥さんが言ったので、ひたすら料理が残された皿を洗っているのだが気が気でない。
「なんだこの店は、ババアとジジイだけなのか。若い娘はおらんのかあ!」
と罵声が聞こえてくる。完全に酔っ払いが暴れだしているのだ。いくら奥さんが気丈だからって、これはかわいそうだろう。酷だよ。俺が出ていって……ちょっと痛い目を見せてやる。と意気込んで袖をまくりあげ、姿をあらわすと、ろくでなしの中の誰かがヒューッと口笛を鳴らした。
「よっしゃよっしゃ、いるじゃないか。若い娘が。こっち来いよ。酌をしてくれよ」
俺は軽蔑しきった態度でそれに答える。
「お客様、申し訳ないですがそーゆーのはやっていませんのでね。他のお客様にもご迷惑が……」と言ったところで俺はクルッと周りを見た。「いないのか……貸切状態になっちゃってるのか……無理もないな」
「なにブツブツ言ってるんだ。それよりこっち来いって」
と一番近くにいたガラの悪い、海賊かよとすら思ってしまうような男が、立ち上がって、俺の尻を掴んで引き寄せようとする。その指を折った。ぐあああーっ……と悲鳴を上げて転げ回る。
「ゆ、指が、指が折れた」
げっ、と他の仲間が立ち上がり、俺を取り囲んだ。
「お前はみだりに神に触れた。殺されたって文句は言えないところだ。いや、それどころか慈悲に感謝しなくちゃいけないんだよ」
と居丈高に言ったところ、ハラハラしながら見ていた奥さんが泡を食って頭を下げ、いや、土下座してしまった……。
「こ、これは、申し訳ございません。この子は常識知らずで、どうかお許しください、後生ですから」
かわいそうなことに、怯えきってしまっている。
「馬鹿野郎、仲間の指が折られたんだぞ! どうなってやがるこの女ァ! これじゃこいつは船に乗れねえよ! 落とし前をつけさせてやる」
と怒鳴った男の抜いたナイフがきらめいた。
「あー、いやいや、折れていませんよ。ちょっと見せてください」
俺は静かに、あまりにも落ち着いた様子で痛みに悶えている男に近づいた。その冷静さにあっけにとられたか、狂気でも感じてしまっているのか、誰もその動作をとがめようとしない。そしてその太い指に触れると、俺は完全にそれを治癒した。
「ほら、まだ痛むか? ずいぶん大げさにしてるが、大したことなかったろう?」
「痛い、何いってんだくそったれ! お前に折られたんだ。痛いに決まってんだろうが!」
「それは気の所為だ。落ち着いて指を動かしてみな。動くだろ?」
言われて男が我に返ると、確かに自らの指が治っていることに気づいた。痛みもなくなっているのだ。
「ふふっ。こんな女の細腕で、そんな簡単に折れるわけがないじゃないですか。皆さん酔っ払いすぎですよ。もうそろそろお帰りになられた方が良いのではないですか?」
と、ニッコニコの笑顔を作ってそう言った。彼らは酔いが覚めたというか、幽霊でも見たような不気味な気持ちになったようで、多少正気を残していた者がおとなしく金を払って、全員帰っていった。多分、どこぞに宿をとっているのだろう。
「レナスちゃん、大丈夫だった?」と奥さんが目に涙を浮かべて俺に抱きついた。とても怖がらせ、申し訳ないことをしたようではあるが、かといって暴れさせておくわけにもいかないし……。ご主人はどうしただろうかと探してみると、そちらは呆然とした様子で、帰っていく酔漢たちの背中を見送っていた。いやぁ影が薄かったなぁ。
「おばさん、悪かったね。怖がらせちゃって……。でもただ指をひねっただけだったんですよ。本当に気が小さい連中ですね」
「馬鹿! 本当にあんたは……余計なことをしなくてもいいって言っただろうに……!」と彼女は俺の頬を両手で挟んで泣くような声を出した。
結局、俺にはこういう客商売っていうのは全然合ってない。でも、土下座までさせてしまって、すまないとは思っていた。自分ひとりなら、もっと強い態度で罰を与えてもよかったのだが、今後、この店が続いていくのに無茶な態度はするべきではなかったと、今更のように気がついた。
「ごめん……反省してます……。おばさん、休んでてよ。片付けは俺がしますから」
いったいそれがお詫びになっているかわからないが、片付けを始めた。いい感じにぐちゃぐちゃで、割れた瓶も散乱してしまっている。これは私が来たから割れただろうか? 来た時にはすでに割れていたような気がする。ガシャンという音が奥にいる時に聞こえたんだ。確かだ。ささっと箒で掃いたが、細かい破片が散らばっているかもしれず、他の汚れもひどかったので雑巾を持ってきた。
「いや、良かったんだよ、あれで……」と戻ってきたご主人が言った。「キリがないからな。今まで何も手を打ってなかったのが悪かった。せめて男の俺がなんとかしなきゃいけなかったのが本当なのに……レナスちゃんも、ごめんな……。今後はああいうことがありそうな時は衛兵さんにこまめに見回りしてもらうようにしたらそれで大丈夫だよ。まあ、お前も泣くんじゃないよ。あのぐらい、よくあることさ、次からはきっと大丈夫だよ」
「……うん……うん……そうだねえ……」
さすがに夫婦というべきだろうか。すっかり消沈して座り込んでしまっていた奥さんも顔を上げ、心配して出てきた娘さんと一緒にすっかり店を元通りにすることができた。
まったく、殴って解決しないことというのは、本当に、面倒……いや、大変だ。