初心
「誰か、夜になったら小舟を出して忍び込む手伝いをしてくれる人はいないか?」
と私は兵士たちにほうぼう聞いて回った。兵士には漁師も多かったのだが……彼らはできないと言った。
「なぜできない?」
「あんな恐ろしい相手に近づくだけでも恐ろしい。潜入だって……? 危険すぎるよレナス様を助けたいのは私だって思うが、あちらも神様じゃないか。私は……神に逆らって命を捨てたくない」
「馬鹿を言うな」と私は熱くなって言い返してしまった。「お前らずっとレナス様に守られていたじゃないか。恩知らず! それに、別にあの船に一緒に入り込んでくれって言ってるんじゃないんだ。私一人で行って、帰りにまた乗せてくれるだけいいんだ」
「そんなに言うならカヌーなら貸してやるよ、お前一人でそれを動かしていけばいいだろう」と相手もカッとなって言い返してきた。
「私は乗ったことがないから……一人だとどうやったらいいかわからないんだ」
私は自分の不甲斐なさに肩を落とした。なおもほうぼう聞きまわるが、成果は不首尾に終わった。町はひどく動揺している。今まで支えられていたものがいきなりそれを失い、しかも衆人環視の中で敵と一緒に海を渡るという、この世のことと思えないような奇蹟を起こして去っていったのだ。もはや誰もが戦う力を失っていたのかもしれない。
お日様が雲の影に入り、さっと音を立てるように空が暗くなった。なんでもないことだが妙に象徴的なようで憂鬱になる。だが、これを解釈するとすればやはりレナス様こそ太陽で、敵は影なんだ。と思うのは前向きすぎるだろうか?
その時私は、ひたすらに歩き回って教会まで来ていた。なんでもないような……普通の、レナス様が崇め奉られている、小さな教会。私はそこに吸い寄せられるように入った。人はまばらだったが、熱心にお祈りをしていた。私は適当に空いていた席に座り、何を思うでもなく静かに目を閉じた。ただそれだけでも心が落ち着くのだった。いつも通りに。
「どうかレナス様がまた来てくれますように」
と、前に座っていた小さな女の子が言った……ような気がした。この子もこの戦争でレナス様に助けられたのだろうか? ちらと彼女を見ると、隣にいかにも漁師然としたたくましく日焼けした男が慈愛の目でその少女の頭を優しく撫でていた。おそらくは父親なのだろう。
私は彼らのことがどうしても心に引っかかって、先に教会を出てからもその前の小さな広場をウロウロしてしまっていた。そのように怪しさ全開ではありながら待っているとその、子連れの壮年の男が出てきて、私と目が合うと会釈して立ち去ろうとした。
「あ、あのっ」
と私は若干上ずった声で呼び止める。
「なんですか?」と彼は眉をひそめ、心なしか少女を私から隠した。
「あなたは、小さな舟を操れるでしょうか? あの洋上に浮かんでいる、あの大きな帆船に、近づくことができるでしょうか?」
「それはどういうことですか」当然だが不審げに彼は聞き返す。
「レナス様を助けたいんです。ご存知でしょう、彼女はあの船にさらわれていってしまった。私は取り戻しに行きます。ただ、舟を操ることができないのです」
「あなたはどういう人ですか?」
うっ、と私は言葉に詰まった。私はどういう人間なのか……? 恋人と言ってしまいたかった。だが、とてもとてもそのような関係ではない。残念ながら、非常に残念ながら。それに、今この町でそんなこと言ったら蹴り殺されるかもしれない。
「戦友……です。私は、レナス様と一緒にしばらく旅をしていました。仲間なんです」
それも私の偽りのない心だった。彼はその曇りのない目で私をじっと見た。彼は不思議な雰囲気を持っていた。あまりにも心が落ち着いている、大切なもののためにいつでも命を捨てられるような、覚悟のようなものを感じるのだった。やがて彼は納得したように口を開いた。
「私はレナス様に命を助けられたことがあります。だから私は彼女のためならなんだってしたい。そしてあなたは信じられる人のように思えます。詳しい事情はまだわかりません。が、レナス様を助けることになるのであれば、私も一緒に行かせてください」
私は感動で涙を流さんばかりの勢いでその手を取った。取ったが、その傍らにいる少女が目に入った。本当にいいんだろうか。命をかける挑戦になるかもしれないというのに。
そんな私の内心を敏感に察したのか、その少女が笑顔をみせて元気な声を出した。
「お父さん、お兄ちゃん、きっとレナスお姉ちゃんを連れて帰ってきてね!」
お父さんが嬉しそうに(心中はさておきそのように見えるというほどに)して少女をぎゅっと抱きしめた。
「お前もお母さんと、いい子して待ってるんだよ。すぐに帰ってくるからなー」
「娘さんは一人でも大丈夫ですか?」
「ああ、一人でよく来る子だから、迷ったりしませんよ。名乗りが遅れましたね、ヘクトルさん。私はティモスといいます」
彼は漁師ではあるが、ちょっと前に事故にあって船を失ったのだという。船もそうだが療養も必要で、今は陸で仕事をすることが多いそうだ。
「でも、支障はまったくありません、自分は生きてる時間で海にいた時の方が長いんです。勘は鈍ってないし、いつか絶対に船もまた買い直しててみせますよ」
私たちは海の方へと歩きながら話をした。カヌーを借りることができるので、それを使って夜静かに敵の船に近づくという計画。それはいいが、その位置はわかっているのか。
「一番大きい船にレナス様は乗りました。それがあの船です」
と私は指差した。あれだけ大きいと洋上では近づくだけでも危険がある。が、幸い今晩は波は静かだろうとティモスさんは言ってくれた。射石砲も今は発射されていない。その必要なしというところか。今やアルゴスの士気は地に落ちていて、いつ陸軍を伴った総攻撃があってもおかしくない。いや、総攻撃があると聞いただけで降伏すらしかねないのである。私たちは準備を進めた。
そして夜になって、私はなるべく身軽な格好になり、二人で小型のカヌーを漕ぎ出した。静かな月夜であるが、あまり明るくてもいけない。見つからないように、ほどほどの距離まで近づいて、タイミングを待つことにした。
私は空を見上げた。待つ間、ティモスさんが、満天の星について、色々と説明をしてくれた。航海で役に立ついくつかの星座を教えてもらって、そして最後に一つだけ離れて輝く星を指さした。
「あれが私たちの幸運の星です。あれが見えた以上、絶対にうまくいくんです」
正直私が見てるのが彼がさした星と同じなのかよくわからなかったが、彼の断言はゆるぎもない確信を持っていた。その時、月が雲に隠れた。私たちは静かに速やかに接近した。
「では、ここから登っていきます。レナス様と一緒に戻ってくるので、合図したら迎えに来てください」
と私が船に取り付きながら言った。至近距離に貼り付いていればかえって見つかりづらいかもしれない。私は海のことはよくわからないが。
「了解です。あなたも、死なないで、無理をせず必ず帰ってきてください。たとえ失敗しても、きっとまたチャンスはありますから」
私は背中越しにぐっと親指を立てて登っていった。とにかく急ぐ必要はある。こんなのが初めての乗船体験になろうとは。
壁面の隙間に小刀を突き立てながらやっとこさ甲板に登りきったが、それだけで疲労困憊になりかけた。敵兵の姿は見えなかった。私は息を整え、慎重に船の中を探っていった。どうやらマストの上に見張りはいるようだが、彼らは気がついていないようだ。考えてみればこの船には神様が二人もついているのだ。それはもはや油断というよりも、信仰である。
中に入っても静かなものである。私はさらに船の中心深くへと進もうとし、途中たまたま遭遇した一人の敵兵の首を冷静に絞めて意識を飛ばさせた。どうやらトイレに行くところだったようだが、お気の毒である。なにしろ木造の船であるから、火事を恐れて灯りがほとんどなくて、隠れるにも隠すにも困ることはない。ほとんどの船員はもう眠っているような感じだった。やがて私は一番大きな扉を見つけた。それは礼拝室であった。
間違いない。神がいるならここしかないはずだ、と私は確信し、そこをそっと開けた。見たくもない光景があった。室内はろうそくが幾本も立ち、それなりに明るかった。レナス様と、そして黒髪に色白の男が神の座に並んで座り、何やら話をしているのだ。それも睦言のような雰囲気で。頭にくることに、レナス様は絵でよく描かれるような非常に可愛らしい女性らしい衣装を身に着けていた。あれは自分で着替えたのだろうか……着替えさせられたのだろうか……いや、そんなことは今はいい。
「やあ、誰か来るだろうとは思っていたよ。しかしお前は誰だ?」
とその邪魔な男……ゴダンが私に口を利いた。その男はそのまま彫像になってもおかしくないようなほど作られたような美形で、しかも足が震えるほどの威厳があった。だが、私は強気でそれを振りほどこうとした。
「誰でもいいだろう、お前を今そのまま剥製みたいに動けないようにしてやるよ。そして……。そうしてから……。レナス様、私のことがわかりますか?」
しかし彼女は正面にいるこちらを見てはいたが、その目はうつろで無反応だった。であればまずはこの男を斬ってからどうにかする、と私は自分の剣を抜き放った。
「でやあっ!」
と私は間にあった机を飛び越し、ゴダンに斬りかかった。だが、これは魔法なのか? 座ったままでいる奴に、剣が達する前に弾かれ、私の体がそのままの勢いで後ろへ吹っ飛んだ。大きな音がして兵士たちが集まってきて、私は何人もに体を抑えられて木の床に這いつくばった。一歩も動くことができない。もうおしまいか……とは思わなかった。もともと神に勝てないことは想像していた。私はレナス様を迎えに来たのだ。
息ができない苦しい体勢ではありながら、私は彼女に向かって心臓が張り裂けてもとばかりに声を振り絞った。
「レナス様、レナス様! 私のことがわかりますか!」
しかし彼女は無反応で、むしろ不安げにゴダンに寄り添っているようにすら見える。
「レナス様! アルゴスのみんなが待ってます! あのソーニャちゃんや酒場のみんなも。憶えていますか、オリビアちゃんっていう小さな女の子も教会で祈ってたんですよ。またあなたに会いたいって!」
それでもまだ彼女は動かなかった。これは言いたくなかったが、私は考えていた言葉を言わざるを得なくなった。言いたくはなかった、これまでの私の努力を無にするような気がしてならなかったから。だが、言うしかなかった。
「レナス様! あなたは人間でしょう! しかも、なぜそんな男の妻なんですか。それにそんな格好をさせられて。あなたは男だろう! 男のはずだろう!」
私はほとんど泣きながらそう叫んだ。……彼女は我に返って周りを見て、隣の男にしなだれかかっている自分を発見した。
「なんだなんだ、気持ち悪いな! 離れろ!」
と彼女がゴダンをその拳で無遠慮に殴ると、そのきれいな顔が破裂するような勢いで吹っ飛んだ。見ていて胸のすく思いだった。兵士たちは逆に動揺どころか気絶しそうなほどショックを受けたようで、私を抑える力が抜けたところで、持ってきていた彼女の剣を投げ渡した。
彼女はそれを受け取ると、ゴダンを殺そうと一瞬思ったが、しかしやめた。ゴダンは完全に意識を失っていた。これこそレナス様による圧倒的な物理の力と精神的な打撃であるし、ひょっとしたらトドメを刺すまでもなくもう死んでいるかもしれないというほどのものである。ただその場を脱出するために、剣を抜かぬままで兵士たちを苦もなく追い散らしたのだった。もはや逃げるのは簡単である。ここまで入りこんでしまっていれば、もう彼女一人で船ごと沈めるか、制圧してもいいようなほどだが、彼女が嫌だと言った。
「この格好はちょっと我慢ならん。動くと色々見えそうで冷静になれない。とにかく帰って着替えたい」
というので、私としてもこんなところに長居はしたくない。船の外壁に爆竹を叩きつけ、音で合図を送ると、すぐにティモスさんが舟を寄せるとそこへ私が先に慎重に飛び降りた。それこそレナス様を水に濡らしたら大変である。私が手を広げると彼女はとても嫌そうな顔をしたが、是非に及ばすである。私は彼女をしっかりと受け止めた。絶対に落としたりするものか。
帰りの漕手はパワーが違う。明らかにスピード出しすぎで、前側がほとんど浮いていた。
「だっ、大丈夫なんですかこれ?」
と大声を出さないと隣のティモスさんにも届かないぐらいに水を叩く音がやかましい。
「なんとか、私がバランス取りますから、ヘクトルさんはそこで座っててください。なるべく動かないように! 重心がずれますから! レナス様、もうちょっとゆっくり!」
色々あったけど最後は私はただの重りとなってアルゴスの町に帰り着いたのだ。




