自分を信じて
それ以降も、まあ雨の日もあったし、あるいはあちらもずっと浮かびっぱなしというわけにもいかないのだろうが、それにしても、休む日も挟みつつも、のべ一週間はドカンドカンと賑やかな音が鳴っていた。音ほどに危険がないのが知れ渡って、わざわざ見物に来る者まで現れた。緊張しすぎて良くないのはもちろんだが、気が緩みすぎても良くないのではないだろうかと考えなくもない。
しかし、今のところ慣れているのは市民だけで兵士たちは適度な緊張を保っている。いつ敵が乗り込んで来るかというのは射石砲とは別の話であり、見張りの兵などは船が減ったり増えたりするたびに戦々恐々としている。
実際に動いている船は何隻なのかよくわからないが、相当金がかかるに違いない。石が撃ち込まれ続けているわけだが犠牲者は数名で、逆に負傷者はゼロというおかしな自体になっている。もちろんレナス様のおかげである。彼女はもはや町では女神のような存在となり……言い換えよう。女神である。
町が初期でパニックにならなかったのは完全に彼女のおかげで、もしもいなかったら民衆が混乱して暴動でも起こしていたかもしれない。そうすれば敵もそれを見て総攻撃をかけていたかもしれない。そのつもりがあったかとか可能な戦力があったかというのはわからないことだが。
「とにかくレナス様のことはすごい評判ですよ。この町での活動が聞こえてこない日はないくらいですし、なにしろ……神様が味方なんですから、負けるわけがないって」
ソーニャが私に水と料理を運んできて、そう言った。私は今その彼女の働く酒場にいる。レナス様は今はまだ来たがらないが、私個人はもはや常連である。食料供給も今のところ生活には困らない程度に戻ったので、よかった。必要なものは川経由で内陸部から運ばれてくる。今のところ漁師が海で仕事をできない以外は戦争といっても落ち着いたものである。
「それがまたその通りなんだから……すごい話だよね。……逆に私たち軍人は評判が少し悪いけどね。何もしてないって。確かに事実といえば事実だけど」
と私は苦笑した。とはいえ家を建て直したり補強するのを手伝うというようなこともしているから本当に何もしてないわけじゃない。
「それに」と私は続けた。「何もしないまま終わってくれればそれが一番いいんだ。どこかにこの町の様子を見てるものがいて、スキを見せたら攻めてくるよ、きっとね。それが来ないというのは我々と市民のみんなが団結できているからなんだ」
「なるほど~、すごいんですね~」
感心してるのか馬鹿にされてるのかよくわからない褒め方だが、多分裏の意図はないだろう。だが、さすがにあまり軍のことを軍の外で話すべきでもないような気はした。だからこれ以上は黙って私はひまわりの種をポリポリとかじった。これは別に食料の枯渇とかとは関係なく、単に私の好物というだけ。
「それよりも、その、鍵穴教というものについて話を聞かせてもらえるだろうか?」
「いいですけど、私あんまり知らないですよ。マルコからのまた聞きだから」
「マルコとは?」
「ええと、最近はちょっと来てないんですけど、前までお昼はお店を手伝ってくれていたんです。彼はずっと都会に出たくって勉強してお金も貯めてたのに今はとても無理になっちゃって、会いに行ってもすごく落ち込んでいるみたいです……」
という彼の事情はさておき、彼経由で聞いた情報とはこうである。パトラやその同盟国が戦争を必要とする最も大きな理由は、鍵穴教を広めるためである、と。人類は今やレナスという神だけを崇めている古い人たちと新しいゴダンという神を崇める人の二つに分かれる。その主導権を握るために戦争が必要なのだと。
「それはいったいどういうことだ? 確かにレナス様だけが人類の神だよ。私もそう信じてる。ゴダンなんているのかというもんだ。いや、聞いたことはないわけじゃないけどね……マルコはどこでそれを知ったんだろう」
「まあ……どうなんでしょう。彼も昔、受験のために実は都会へ出たことがありまして……それから帰ってきてすぐの時に聞いたんです。すごく興奮して私に話してくれました。その時は話半分で聞いてたんですけど……本当に戦争が起きるとは思わなかったから。こんなことになるならもっとちゃんと聞いていたら良かったのかもしれない……」
ソーニャはふいに感傷的になって涙ぐむが、そんな時でも、ありがたいことなのだろうが次の仕事があって、私の前から下がっていった。
代わりにソーニャの母であるリカさんが現れて、私にレナス様の様子を聞いた。私はもちろんお元気ですよ、私はもうただ一緒にいさせてもらえているだけで、それだけでいつも私が歩むべき道を示してもらえているんです、と答えた。
ヴァレリーさんという店のご主人はちらっと奥から顔を覗かせていたのが見えたが、話はしなかった。シャイな性格らしい。だが、奥さんの言葉からは彼らムロワ一家がもっているレナス様への強い愛着を感じて、その人柄というか温かみのようなものが私をも嬉しくさせたのだった。
マルコに是非会って話がしたいと、その後でソーニャから住所を聞いて、私は言われた通りの道を歩く。なんとなく人々の顔色は悪くはない。だが、この状態があとどれぐらい続くものなのか? 一週間か、一ヶ月か、一年、何年も続くのか、わからない。敵がいったいどういうつもりで戦争を始めたのか? それがもしかしたらマルコの話でわかるのかもしれない、と私はなんとなく予感していた。
彼の家は街路からそれて薄暗い脇道に入ったところにあった。二階建てアパートの一階で、ドアは少し汚れていた。ノックをしたが、返事はなく、しかし気配はあった。
「マルコさん、不躾で申し訳ありませんが、私はヘクトルといいます。レナス様と一緒に旅をして、今この戦争に参加しています。ソーニャさんから伺って、あなたに話を聞きたくて今参りました。あなたが話していたという、鍵穴教のことについてなんですが……」
バタバタと慌てた音がした。私は待ち続けて、やがて扉が開いて、マルコが出てきた。彼は寝ていたようで、薄くひげが伸びて目は充血していたが、それでも顔はぬぐって、服装の格好はどうにかつけたようだ。
「ごめんなさい。最近夜になると怖くて眠れないもんでして……昼に寝てしまってるんですよ。それでどういう話を聞きたいんです?」
昼ではあるがどうしても立地の問題からか薄暗くなる室内に招き入れてもらい、私は椅子に腰掛けた。
「この戦争と、鍵穴教の関係について、です」
と私は真剣な顔で答えた。
「関係ですか? 関係……関係ですか」彼はしばらく考え込んだ。言葉を探るように、なにか言いかけてはやめるのを何度か繰り返した。やがて意を決したように一息で話し始めた。「一言で言ってしまえば、予言ですよ。この戦争自体が予言されていたことなんです」
「というと?」
「レナスが降臨して、彼女によって戦いが起きるんです。それをゴダンが迎えに来て、共に戦争を終らせる。ゴダンというのは知られていないけど、レナスの夫なんです。夫婦なんですよ。だから迎えに来て、そして二人が一緒なら戦争も終わるし、人類は一つになって、もっと広い世界を支配できるってわけです。ゴダンは戦争の神ですから、異種族すらも征服できるんです」
私はあまりにもそのスケールの大きな話についていけなくなっていた。だが、かろうじて矛盾点をついてみるぐらいのことはできるかとは思った。
「まず、この戦争はレナス様が起こしたわけではない。そこが違うのではありませんか?」
「そうでしょうか。マティ・リシエという人がこの町の後継者を助けてくれと頼んだのに断ったと聞いています。生きていたら戦争は起きなかったでしょう」
「それは違う。死ぬのであれば死ぬのが運命だったんです。それを助けるということこそ、神の作為であって、本来やるべきではないこと。神は気まぐれを起こすことはあっても意図して歴史に介入すべきではないんじゃないでしょうか?」
「じゃあ、今なぜこの町の人たちを救っているんですか。矛盾していませんか」
「それは……私たちは……ただ自分が助けたいと思った人を助けるために走り回るんです。神としての意思じゃなくて、人間としてです」
「だけど、今のこの町の人々の心をご存知ですか? 神様が守ってくれると思って、安心して、祈っていればなんでも解決すると思ってる。レナス様がこれほど神様として絶対的に信じられていることなんてなかったんじゃないでしょうか?」
「私は……私はそう思ってはいません。私はレナス様に頂いた恩以上のものを返したいと思ってますし……それに……やっぱり彼女は、少なくとも今生きているあのひとは人間です」
「さあ、どうでしょうね。そうかもしれないし、そうでもないかもしれませんが……現実として予言の通りに今動いているのだから、この先もきっと予言の通りになるんじゃないでしょうか。神というのは人の思いに引っ張られる、と昔レナス様自身が言っていましたよ」
「人の思いとは?」
「鍵穴教というのはすでに多くの人が信じてるんです。私だって……たぶん信じているんだと思います。つまりそういうことです」
話を終えると、私は肩を落とし落ち込んだ気持ちで彼の部屋を立ち去ろうとした。ふと思ったことがあって、急に振り返って私は彼に問うた。
「その予言には、私のことは書いてあったでしょうか?」
彼は戸惑った様子でありながら、一生懸命記憶を掘り返し、答えた。
「あなたのことなどは書いてなかったような気がします。聞いたことがありません。多分書いてないんじゃないかと思います」
まだ空は明るくて、私は少し街をさまよった。レナス様に会いたかったのだが、今はどこにいるだろう。話に夢中で砲火の音が聞こえなかった。敵の石が降ってくればそこにレナス様がいるはずだったのだが。しかし、よく思い出すと鳴っていなかったかもしれない。見回すと街の様子は静かで、風ひとつなかった。とすれば部屋に戻っているかもしれない。と考えて私は自分たちの部屋に急いだ。
滞在している宿に近づくと、ちらほらと人々が立ち止まっていて、異様なざわつきを見せていた。私は背筋が凍るような感覚をこらえながら立ち止まっている人たちを避けながら足を急がせようとして、だけども歩く速さが上がらなかった。私は何かを見るのが恐ろしかったのかもしれない。近付こうとすればするほど遠くなっていくようだった。
その何かが過ぎ去った後にその場にいた人たちというのは立ち止まってしまう、というより動けなくなってしまったかのようで、それを追えば位置はわかるような気がした。私は真っ直ぐ海へ近づいていた。
どよめきが一層大きくなって、私は海に向かって建っている城壁によじ登った。その場所はさほど高い壁ではないが、登らなくては私でも向こう側がギリギリ見えない程度はあった。見えた先は砂浜の向こうで、遠目でも間違えるわけがない。いつもどおりの格好をしたレナス様と、男が隣り合って歩いていた。
その男はまるで物語に出てくる悪い魔法使いのように私には思えたが、後から考えるとそうでもなかった。普通の、ちょっと気取ったような黒い服を着ていて、それが私には黒いローブにも見えたし、顔が見えないのは背を向いているから当然なのだが、それがいかにも悪役に見えたのだった。
「レナス様!」
と私は叫んだ。何度も叫んだ。聞こえているはずだ。聞こえる距離のはずだ。レナス様がこちらを振り向いた。しかしすぐに前を向き、あの男とともに海を渡っていった。誰もそれに違和感を持つことができなかった。さもそれが当然のようにだ。海を歩いているというのに! 私も同じようにそれをどうこう気にしている余裕はなかった。
レナス様は私に振り返って助けてと言ったんだ! 声は聞こえなかったし口も動かしてなかったような気がするけど、表情がそうだった。絶対に言った! 彼女は洋上にいまだ憎々しく浮かんでいる船へ向かっていった。私はあの船へ入り込む方法をすでに考え始めていた。




