アルゴスに入り
家の買収金はしっかり受け取った。むしろもらわずしてなるものかと。隣の家ももちろん立ち退きの用意をしていたが、その順番を踏み越えてというぐらいに相当せっついて金を払わせた。
それからすぐ出発し、道なき道すらも踏み越えて私たちは進んだ。途中に山賊と遭遇したが鎧袖一触、相手が生きているかどうか確かめるだとか、戦利品を得るだとか、そんなことすらめんどくさいとばかりに急いだ。そうして数日かかった後にアルゴスの町が見えた。町のすぐ横に小高い山があったが、そこに応急的な砦が作られている。
かと思うと城門には三人いるだけで、特別物々しい雰囲気というわけでもない。私たちはそれぞれ名を名乗った。
「レナスさんはこの町出身なんですかー、久々のご帰郷というわけですねー。それであなたが、ヘクトルさんで……旦那さんですか? え、違う? 失礼しました。なるほど、お仕事仲間ですか。このままお待ち下さい。今ちょっと厳しくなってるものですから」
私の名前はこの町には伝わってないのだろうか。たまたま彼が知らないだけか。ちょっと残念でもある。しかし、良いのかもしれない。これから起きるらしいのは、遊びなんかじゃなく、戦争であることを思えば、目立たないことなんてありがたいものさ……。
ひとつ大事なことをいうと、私は指揮官教育を受けていない。そしてレナス様も、個人では圧倒的に強かったし、少人数の戦いなら経験も豊富だが、大規模になった現代の戦争ではどうしていいかよくわからないそうだ。そもそも見たこともないものをどうとも言えないだろうと。それはそうだ。
私たちはなぜここに来たのか? レナス様がお世話になった人を守るためだ。戦争自体を左右するなんてできようはずもない。身近な人を守ること。いつも私たちが努力できたのはそれくらいで、それ以上のことはとても無理だった。
私は自分の育った街や家族のことを思い出した。考えたくもないことだが、この戦争を起こす立場にあるのはパトラであろうということだ。それは特にパトラが最も強みとする資金という点でそうなると思われる。あのカナザの鉱山をまるごと買い取れるという時点で、位置関係からしてもパトラ以外にないのである。
この人間世界は規模の大小あれど都市国家として、ひとつひとつの都市が自由意思を持っている。このアルゴスという人口数万人程度の町ですらもそうであるように。それぞれは緩く結ばれ、どこかが危機にあえばそれぞれの利害と盟約によって救援があったりなかったりする。故にパトラが戦争を始めたら敵になる国もあれば味方になる国もあるだろう。そこはここの領主たちの手腕と人望と幸運によることになる。
それにしても生まれ育った都市、パトラが敵になる……考えてみるとレナス様とはまるで正反対だ。家族も敵になるかもしれないのに……なぜ私は戦うのだろうか? つらい気持ちはあるが、それでも今ここにレナス様がいる。私は貴族として育った。忠誠を誓う相手のために命を捨てることをむしろ誇りや憧れとして感じるように育ってきたのだ。
「申し訳ないですが、入国目的を教えていただけますか」
新しいもう一人、おそらく上司であろうが、門の前で待たされてる私たちの前に出てきて、すまなそうに尋ねた。
「彼女の帰郷です」
と私が答えた。
「少々お待ちください」
と彼が引っ込み私たちはまた待たされた。
「だいぶ待たされるな」
「やはりピリピリしているのでしょうか」
とひそひそ話をしながら待った。自分たち以外旅人はいない。確かに戦争の噂があるというのにわざわざ来るものなどおるまい。私たちは疑われているとしてもおかしくない。
「いざという時のために逃げる手順を考えておかないといけませんね」
と私が言うと、彼女はその必要はないよと気軽そうに答えた。
「なぜそう思うのですか?」
「勘でしかないが……まあ、そうだな。私はともかく、お前がパトラ出身というのは調べればすぐわかるだろうけど、そんな堂々とした間抜けなスパイがいるわけないからな。疑いも晴れるさ」
はははと彼女は笑うが私が渋い顔をしたのを見て、フォローだかなんだかわからないような言葉を彼女は続けて言った。
「どうしても危なそうなら死ぬ前にどうにかして助けてやるからまあ安心しなよ、な」
またいくらか待ったかというところでやっと声がかかった。
「ヘクトル殿、どうぞこちらへ」
と、先程の上司らしき人物から呼び出され、門をくぐった。入るとすぐに街並みが広がっているが、かなり活気に乏しいような気がした。すぐに放免というわけじゃなく、彼がついてきてくださいというので、おとなしく私たちは続いて歩いた。
「実はレオ将軍が、お話を伺いたいとおっしゃっていて、ご面倒ですが、なにとぞお願いします」
「構いませんが、将軍ですか? いったい私がどんな話をできるのでしょう」
意表を突かれたが、疑われるような人物にわざわざ将軍が会うということもないだろうとは思ったから、身の危険は考えなかった。
「さぁそれは……私には詳しいことはわかりかねますが」
人通りの減っている街路を彼に連れられて歩くのは何やら晒し者のようで嫌な感じではあった。なんでもいいから早く着いてくれと念じ始めてようやく兵舎らしき建物に来た。
「では奥の部屋に将軍がおりますので、どうぞ。私はここで失礼します」
と中までは案内せず彼は帰っていった。
言われたとおりの部屋で私たちはレオ将軍と対面した。年齢はおそらく四十歳ぐらい。背は小さく見えたが不思議な威圧感があり、じっとこちらを見る目をそらすことができないような感じがした。
「やあ、よく来てくださいました。有名なヘクトル殿ですね」
「はじめまして。いやおはずかしい、いっときコロシアムで話題になっただけで、大したものではありませんよ」
と私は苦笑混じりに答えた。
「それに……あなたがレナス様。お二人とも、おかけになってください。良ければお茶をどうぞ。今来ていただいたのは、もちろんご存知かと思いますが、戦争に関してです」
まっすぐ言われて、私は動揺を隠すためことさら笑顔を作って答えた。
「……ええ、噂は聞いております。もう、こうしている間に始まってもおかしくないと」
「そのとおり。時間がないので手短に話しますが、ヘクトル殿、我が国に協力していただけませんか? あなたは高名だし、貴族でもある。それに、和平交渉をお願いすることがあるかもしれません」
「和平交渉。なるほど、それは必要です。私の方も率直に話しますが、もともと協力するためにここへ来たのです。こちらのレナス様がかつてここで生活されていて、ご友人がたくさんいらっしゃるのですよ」
「そういうことだ」とおとなしくしていたレナス様が口を開いた。「将軍はなかなか立派な人物に見える。私たちはこの町を害するために来たのではなく、むしろその逆なんだ。自由に動く権利を与えてもらえるか?」
「もちろんです。レナス様」と彼は最初からそうだったが、自然に様をつけて彼女の名を呼んだ。「どうか思うことを存分になさってください。願わくば我が国、生まれ育ったアルゴスがあなた方によって救われるようお祈りいたします」
レオ将軍はレナス様のことも知っていたのだろうか? かなり切れ者でもあるには違いない。彼の話も聞きたかったが、当然だが相当忙しいようで、後のこまごまとしたことは流し気味に話を進めた。そして我々はようやくこの町で解放されたのである。
「早速その、レナス様がお世話になったというお店に行きましょう」
彼女と歩きつつ、私は昼の空腹を思い出して言った。彼女はどこか上の空のような態度でうなずいた。自分はもちろん初めての町で道などわからないが、おそらくそちらに向かっているようだ。
いい感じに汚れた看板が良さそうな雰囲気を作っている酒場についた。今は昼過ぎだが、客の気配はない。ここがそのお世話になったお店というなら、突っ立ってないで早く入ってほしいと思うが、レナス様が入り口で固まってなかなか扉を開けようとしない。
「どうしましたか」と小声で尋ねる。
「ちょっと、思い出してみるとここも別れが気まずかったから……。待ってくれ、呼吸を整える」
彼女は大きく深呼吸をすると、その胸が膨らんでからゆっくり元に戻った。今更どうでもいいことのようだが(いやよくないが)、彼女は胸は大きい。ただ動きやすいように小さめの服をうまいこと着てそれをむりやり押し込んでいる。以前、その様子を見て痛くないんですかと後ろを向きながら尋ねると、痛みとかはないようにしていると答えをもらってから殴られたことがあった。
「……やめよう」
「えっ」
「会うのはやめる。彼らも自分の人生を必死に生きてるのに、いまさらのこのこと姿を現したくない。黙ってこの町のために戦う」
そう言いながら彼女は道の陰、その酒場と隣の家が建ってる隙間に隠れ、私をも引っ張り込んだ。私が道側に立っているだけで彼女の姿はまったく見えなくなるはずだ。
「でもどうして、せっかく来たのに」
「いいんだ。もともと会ってどうしようということもなかった。話すこともないし、逃げろっていっても多分間に合わないしどこに行き場もないからな。このまま見つからないうちに場所を変えてどっか滞在できる場所を探そう」
「あらっ、どうかされましたか?」
小声で会話していた私たちの耳に不思議そうにしている声が、背中越しに聞こえてきて、変に思われないかばかりを気にしてた私は思わず声を出しそうになった。というよりどう考えても客観的に見て不審だな私たち。
「待て待て、落ち着け。誰だ? ちょっとヘクトル、体が邪魔だ! 無駄にでかい体しやがって!」とレナス様も初めてちょっと焦ったように言う。
ちょっぴり心が傷つきながら、慌てて私は道に飛び出して通路を開けた。
「なんだ……ソーニャちゃんか」
「えっ、レナス様ですか!?」
と彼女が大声を出しそうになったところをレナス様がシーッとその口をふさいだ。
「ソーニャちゃん、悪いけど、場所を変えたい。今、時間はあるか?」
私たちはあの酒場、『カノアの休憩所』からかなり離れたところまで歩き、良さそうな場所で見つかった喫茶店風のお店に入ってコーヒーを頼んだ。料理も頼もうと思ったが今ほとんど作れないと言われてしまい、これならできますがと言われて頼んだスープとサラダを口にする。素材こそ少ないが質が良いようで素直においしいと思った。
「今、食材がすごく値上がりしてるんですよ。戦争が起きるかもしれないっていうから。それもここですよ。逃げる人もいるんですけど、そんなことができるのって遠くに親戚がいたり相当お金持ちじゃないと無理ですよね。私たちはみんな怯えてます」
とソーニャがアルゴスの今の様子を色々と教えてくれた。彼女は涼やかな格好をしている若い可愛らしい女性である。伸ばした髪を三つ編みに結んでいる。私などは体も大きいし女の子からしたら話しやすい相手とは言えないだろうが、そんな相手にも自然に対応してくれるのは普段の客との応対で慣れているためだろうか。
「戦いは大きい規模になる可能性があるから、下手に逃げたって逆に危ないかもしれない。ここは結構守りやすいというか……立てこもるのには悪い地形じゃないから、ここの方が案外安心だと思う。戦後の状況もどうなるかわからないけど……あなた達家族はきっと私が守ってあげるよ」
とレナス様は言った。実際海も川もあり、土地が狭いせいで規模はさほど大きくないが少なくとも食料にはそうそう困らないだろうし、陸から一気に攻めてくるというのも考えづらかった。
というのも、パトラはあまり陸軍が強くない。都市全体として商業で立っている趣が強く、共和制ということもあり個人の独立独歩の意識が強い。そのために兵隊としては集団で国のために死ぬなんて気持ちがあまり強くはないのだ。
そんな中でも私としては貴族は別だとは思いたいが……昔は良かったとよく言われるのも事実ではあった。まあ、私自身ちゃんとした軍事教育を受けてないことからも、そういう程度のものだとは言わざるを得ない。
ただ、海軍は私も門外漢だった。実を言うと船に乗ったことがない。怖いというのが本音だ。あんなに揺れたり、嵐にでもあえばいとも簡単に沈む乗り物によく乗れるものだ、なんて思ってしまう。だけど商売には船というのは欠かせないもので……今の豊かな生活があるのは船のおかげでもある……というのは学校で習ったおぼえがある。ともかくもパトラは海に強い。のではないか、というのはおぼろげには考えていた。
なにしろパトラが戦争なんて私が生まれてからは一度も見たことも聞いたこともないから、よくわからないのだ。どこか遠い世界の話のようだった。人間世界全体で見たら、小競り合いなら常にある。異種族が入り込んでくることなどしょっちゅうだし、村同士の領域争い、山賊の討伐、小さな泡沫都市が起こす戦争……それはある。でもそうやって戦うのは常に貧しく弱いものだけであって、金と力のあるパトラは戦争なんてしないのだ。
だがそうなると、余計に戦争を始める理由がよくわからなくなる。この町がそんなに重要か? 脅威だとでもいうのか? レナス様は別の目的のための口実に過ぎないとおっしゃるが、確かにそれしかないように思えてくる。でもその本当の目的ってなんだろう。
ソーニャとの話を終えて、彼女は安くていい宿を教えてくれた。もともと旅行客が急激に少なくなっているからどこに行っても大歓迎だったが、そこはなんといっても立地が海から遠からず近からずだし町のおおよそ中心……からちょっと外れたところなので、これがちょうどいいように思われた。
彼女は両親にも会っていってくださいと言っていたが、レナス様からこれから始まる騒ぎが終わってからとの返事をもらって、どういう顔をすればわからないようであった。本音のところまだ戦争が始まるだとか、生きるとか死ぬとかの現実感がないのである。
これからは少し時間がかかるかもしれません……
いつもお読みいただいて本当にありがとうございます




