予報
レナス様は最近ずいぶん悩んでいるようだけど、私はとても幸せな時間を過ごしている。私、ヘクトル・プラズムはレナス様が好きだ。愛している、と思う。
ただし、と付随させなくてはならない。そのことは御本人には言えないということだ。言ってもいいが、たぶん怒られる。本人は自分のことを男であるとしているし、言動もそのような感じではある。でも私からはとても愛らしく、そして私がきっと守ってあげなくてはならないひとにしか見えないのだ……。
美しい外見に恋してるだけなんじゃないのか?と考えることもなくはなかった。普段の会話とか、冷静に文字に起こしでもしてみたらなにか違う……と思ってしまうのではないだろうか。そういう考えもわからなくはないが、逆に考えてみよう。恋とか愛とかってものを落ち着いて考えるような人間がどこにいる。敬愛でもいい、忠義心でもいい。私は彼女に対して最大限の好意の感情を持っている。それは事実だ。
今日もこのカナザの町の、さらにそこから切り取られた一角を警護するために朝からいそいそとでかけていく。レナス様はまだ寝ていて、顔を見ることができないのが少し残念だ。最近はでかけたら帰ってこられるのが遅いことが多い。女性らが揃ってよく飲みに行っているらしい。レナス様はともかく、他の者たちもよくお金が続くことだ。さぞそれぞれの夫たちは苦労しているに違いない。それに、レナス様も女性に混じって話が合うのだろうか。本人からすればハーレムで楽しいのだろうか、それとも、全然自然に混じれているのだろうか? 客観的に見れば間違いなく自然なのだが……。
毎日やることといえば、巡回、待機、訓練の繰り返しである。確かにレナス様が言われる通り退屈だが、私としてはヘクトルというこの名が尊敬の対象になっているから、十分にちっぽけな自尊心を満足させられている。いや、だからといってもちろん偉ぶるというつもりはないが、俸給も悪くはないし……ただ気をつけないといけないのは腕が鈍ることだ。レナス様が稽古に付き合ってくれればものすごく上達できるのだが……なかなかそれも言いづらいし、またそこで問題が出てくる。
はっきりいうと、戦いとなってしまうとどうひっくり返っても彼女の方が圧倒的に強いのである。あらゆる点で勝てる部分がない。物理法則を無視しているほどに強い上に奇跡というべき回復能力まで備わっていて、むしろそちらの方こそが本領である。唯一体の大きさだけは私が勝っているが、それを有利だと思えたことがない。
とにかくそういう弱い自分、弱いのは構わないにせよ彼女より圧倒的に弱いというのを見せつけられるのはなかなかにつらいことだった。守るべきひとより弱いという自分の存在意義について考え込まされてしまうから。
あれっ、そしたらよく考えたら今の自分って小さな自尊心を一生懸命守って、日々の生活を満足させてるだけの非常に情けない存在なんじゃないか? ……やめよう、考えないことにしよう。
最近はだいぶ過ごしやすい、春のうららかな気候になった。町中に入ってしまうと、相変わらずホコリや湿気が停滞して季節も何もあったもんじゃないような灰色の世界だが、町を少し出ると新緑が目に眩しい。休みにはピクニックなんていいかもしれない。この辺りは害獣もいないし異種族が来るようなルートもない。……そのかわり鉱山がなければ他の資源もないし商業的に考えるといい立地でもない。
この周辺の自然整備をしている人たちがいて、彼らは余暇を使って自発的にそれをやってくれている。ありがたいことだ。病院もその辺りに建てたら負傷者の心の慰めになるだろうに……とは思うが、そこまでの費用も人もいないのは残念だ。
考えながら歩いていると、誰かとぶつかってしまったようだった。なんという不覚だろうか。なんのために自分は歩いているのか。これじゃいざ事件が起こった時に俊敏な動きなどできようはずもない。それどころか今まさに事件を起こしてしまったじゃないか。
「すみません、大丈夫でしたか。お怪我はありませんか?」
と言いながら足元を見ると、体格はそこそこだがまだ少年というべきであろう男の子が呆然とした顔でこちらを見上げている。手を差し伸べたが反応がなく、かと思うと急に我に返った様子で悔しげに立ち上がり、逃げるように去った。
なんだったんだろうか……そもそもここはそこまで狭い道ではない。馬車がなんとか通れるか通れないかぐらいの幅はある。歩行しててそうそうぶつかるものでもないし、いかにのんきしすぎていたといっても自分が気が付かないはずはないのだ。なおもよくよく考えると、あちらからぶつかってきたようにも思えてますます不思議だった。そして念のために付け加えるが決してこれは言い訳ではない。
(当たり屋というやつかな……)
という考えも浮かんだが、子供がそのようなことをせねばならないとはあまり思いたくなかった。
まあ、いい。忘れよう。それより自分の不覚を反省して、もうこんなことのないようにしよう。
など考えて巡回を続けていたらもう一度その彼が次は道角の出合い頭に思い切りぶつかってきた。うまく隠れていたため見えていたわけではなかったが、感じていた気配からそう来るだろうとは思って構えていたにもかかわらず少しよろめいてしまった。逆に相手は盛大に尻もちをついていた。今度は逃さないように、脇を持って体を立ち起こさせた。
「君、いったいどうしたんだ。さっきもぶつかったけど、また来たな」
「どうしたもこうしたも別に……ただあんたが強そうだから……力勝負がしたかったんだ。はーなーせよー!」
と彼は悔しげに手足をバタバタとさせるが、その捕まえられた手がまったく外れない。通りすがりの歩行人がそれを見て、見なかったことにして通り過ぎていった。
「ほう、なるほど」
そういう気持ちは自分も覚えがある。意味もなく兄と腕相撲をしたり、背の高さを競い合ったりしたものだ。いつの間にか身長も力も自分が一番になってしまった時は喜びもあり寂しさもあったが……。
「君は、名前はなんというのだ」
「セイヤだよ」
と諦めてかおとなしくなった彼は、負けたことを根に持つこともないような爽やかな表情で答えた。
「ふむ、セイヤ、くんは、まだまだこれから強くなる。ただ体がまだできあがってないんだよ。だから今はご飯をいっぱい食べることだ。普段困らず食べれているか? 食べてるならよろしい。そうしたら君ならきっと私よりもずっと強くなれるだろうさ」
そう言って私は彼を持ち上げたままぴょいと軽く空中で半回転させて後ろを向かせ、そのまま緩く突き飛ばした。わわ……と若干焦りながらも、彼はすぐさまバランスを整えた。「走れ!」と私が叫んだ。彼はちらと振り向いて笑顔を見せてから走っていった。まるで少年冒険もののような性格だと私は好感をもったのだった。
お昼時にはいつも買った弁当を食べる。自炊はしない。朝も夜も自炊はしない。いつも買ったものを食べる。そんな生活の我が家におすそ分けというものをもらってしまった。同僚の家の庭で野菜が取れたそうだ。さて、それらを持って帰ったが、レナス様とふたりして困ってしまった。
「どうしましょう、ちょっと切ってからパンにでも挟んで食べましょうか」
「だなぁ……」
私も貴族のはしくれとして育ってしまったおかげで大概のものだがレナス様は輪をかけて料理というのができないしやる気もない。一応、ふたりとも経済観念というのはあるのだが……それを上回るやる気のなさ。こういう時によその家では上手にシチューにしたりちょっと一品増やしたりするのだろうが……。それを思うと何やら私たちの将来に不安がないではない。
何しろ台所用具というものを揃えていない。これが致命的だった。やむを得ず野菜を切るのに私の剣を使った。これは実家から持ち出してきた名剣で、有名な鍛冶職人の打った……まあ、普通の包丁よりも千倍は高いものだ。
「あはは……」
その用途にはあまりにも大げさすぎる道具を使っているのが見た目にも滑稽で二人して笑ってしまった。頑張ったかいがあって、たいへん味はよかった。切り方が大雑把すぎて、捨てる部分が多くなってしまったのは、多少の後悔というか申し訳無さはあった。
「それにしてもなんだろうな、お前も俺も料理ができないってのにこういうのもらっちゃうなんて。私なんか、あれだ。私がそういうのできないっての知れ渡っちゃってるから、もらうことすらないぞ」
「ああ……そうですね……やっぱり、私が料理もやるようにしなきゃだめですね……まずは道具から買ってきましょうね。それに、なにかお返しも考えませんと」
「お布施みたいなものじゃないのか、これ」
言われると確かに紛れもなくお布施ではあると思った。
このカナザの町での日常はのんびりと過ぎていったが、やがて終りを迎える時が来た。ちょうど日が沈んだばかりの頃だった。ノックがあり玄関に出ると、葬式にでも出るのかなと皮肉を言いたくなるような黒尽くめの格好をした男が二人いた。中肉中背、その出で立ち以外は記憶に残らないような特徴のない顔立ち。二人いるとはいえ喋るのは一人だけで、もう一人は後ろでただ見ているだけというようだ。
「あなた方はどなたです?」
不吉な予感があり私はその時なぜか尻込みしたような語調で尋ねてしまった。
「私たちはこの町の、このカナザ全体の支配者からの使いの者です。実は区画整理を行う必要がありましてね……申し訳ないがここから立ち退いてもらいたいのです」
まったく申し訳ないとは思っていなそうに、むしろいっそ無感情であるように彼らはそう言った。その言葉を繰り返すのをすでに慣れているというようなほどだった。
「あなた方がその偉い人の使いだという証拠は?」
「ああ失礼、我らのことをご存知ありませんでしたか。これでどうでしょう」
と服の襟につけたバッジのような紋章を見せてくれたが、確かにそのハンマーと鶴橋をあしらった紋章は税金を引っこ抜かれる時に見た覚えがある。
「なるほど、それで、それは拒否することはできないというわけですか」
話してる間に家の中にいたレナス様が後ろから何事かと覗き込んだ。彼女が入ると間違いなく大騒ぎになってしまう。とむしろそっちの方に危機感があるのだが追い返すわけにもいかない。
「本来説明する必要はないんですが簡単に言うとですね。この辺りは大きな道路にしてしまうわけですよ。説明してもわからないとは思いますがいいことづくめなわけです。そしてあなた方にもいいことをお話しましょう。ここを買ったよりも倍の金額で買取りますよ。文句はないでしょう?」
レナス様がさっとその男の手首を掴んだ。ギリギリと音が出るほどの力で。
「ぐああっ、何をする!」
痛みに悲鳴をあげ、後ろに控えていた男が彼女を制圧しようとするが、彼女が腕を横に払っただけでふっとばされてしまった。また私は何もできなかった……。
「立ち退くとか買取りだとか、それも気に入らないがひとまずその話は置くとしよう。その前にだが、ひとつだけ話してもらう。まさか、お前らは戦争を始めようとしているのか?」
気の毒でもないが、男は青ざめてしまっている。答えろ、と小声で言いながらレナスは手首をじわじわと曲がらないはずの方向へ万力のような力で曲げていこうとする。
「やめろ! やめてくれ! 言えない、言えないんだ!」
と折れるギリギリのところで彼は叫んだ。
「……そうか。だが、わかった。もういい。今日のところは帰れ。安心しろ、ここは立ち退く」
レナス様が勝手に決めてしまって私は驚きすぎていたが、なんとか表面に出さないようにその場にいることには成功した。と思う。悲しいことに私が今日うまくいったのはそれだけだった。
「どうしたっていうんですか、何がわかったんですか」
私たちは部屋に戻り、リビングの椅子に腰掛けて二人で話をする。
「戦争が始まるってことだ。アレクシスさんから聞いたんだ。俺が初めに降り立った町のこと話したことあるよな」
アレクシスさんという人は直接では挨拶程度だが話したことはあった。また、町のこともいつか聞いた覚えがある。
「アルゴスですか」
「そう、そのアルゴスの領主の後継者が死んだんだ。そうすると前妻の子がいなくなって……ええと、つまり詳しくはわからないが継承権の問題が出てきて、戦争を吹っかけられるんだと」
「それはありがちな話ではありますが、いったいどこが攻めるんでしょうか」
「それが問題で、ここを抑えるということは、それだけの資源が必要ということであり、必然的に規模が大きくなる。そうしたら問題はひとつの町では済まない。もうアルゴスの問題はただの口実に過ぎないってことだ」
「大惨事を呼ぶことになってしまうかもしれない」
「そう……それで、俺としてはアルゴスを守りに行きたい……お世話になった人がたくさんいるから、さ……ただちょっと気まずいんだよなぁ」
珍しく彼女が迷ったようなことを言う。いったいどういう問題があるのだろうかと不安にならずにはいられなかった。
「……何が気まずいんですか?」
「いや、あそこの息子が病気ってことは知ってたけど、知ってて治すのを断ったことがあるんだ。あそこの多分結構お偉いさんに直接言われたのにさ……それをまた今からどう入っていったものかとね」
「……それなら、何かありそうな時は私が前に立つことにしましょう。レナス様はやりたいことをやってください」
「ヘクトル、お前にはいつも苦労をかけるな……すまない」
「いいんですよ、あなたが一緒なら」
私は情感たっぷりでまっすぐと目の前の女性の瞳を見つめながらそれを言った。自分としては一世一代のつもりでぶつけたが、やはり失敗だったかもしれない。なんとなく白けた空気が流れてしまった。気持ち悪いこと言うんじゃねえよ、と言われそうではあったが、彼女は困ったように目をそらして、絞り出すように言葉を出そうとするのだ。
「うまくいえないけど……お前には本当に……」
ああ、待ってください。言わせてしまったような言葉なんて聞きたくない!
「それじゃあ、今日はもう寝ますね! 明日に備えて!」
気が利いている私はいそいそと席を立ち、歯を磨いた。ああ、もう、神様!




