逃避行
いきなり出てきたような狂信者なるものをなぜ恐れるのかという話だが、昔から、特に最近になって結構この手の存在によるリンチというのはあったようなのだ。レナスはもちろんだがヘクトルも一応は貴族であったためにあまり縁のない話だったが、ニスバはそれをよく知っていて、その上、何者かわからないが大きな存在が関わっているようだとわかってから彼が逃げるのは早かったし、それでいてきちんと忠告もしてくれたのだ。
バカバカしい、まったくバカバカしい。こんな理不尽な話があるかよ、なんて神の身ながら考えてしまうレナスだった。もうニスバには会うことはないかもしれない。戦いを求めながら、人が傷つくのはなるべく避けたい、矛盾をはらんだ自分である。同僚とか、ヘクトルの家族とか、ひょっとしたらパパドプーロス一家にも危害がくわえられるかもと考えたら選択の余地はない。ないけれど悔しくてたまらなくて、絶対に復讐してやる!と誓いながらヘクトルとふたり旅立った。
朝日とともに街を出る。城門は完全なる顔パスで何一つ疑われることはないが、旅に出るのですというと寂しがられ、またコロシアムに出てくださいと、門番から気楽な言葉をかけられる。
「嬉しいお言葉ですが、もう引退したので出ることはありませんね……」
とヘクトルがいうと、彼は残念そうにしていた。
どこへ行くかも決めていないようなものだが、まずは北へ。田舎の方へ行くことにした。お金はあまり持ち運べない。大半を街の貧しい子供のために寄付してしまって、残りをわずかに持って出てきた。すでに少し季節は肌寒く、別の方向へ行けばよかったかな、とすぐに少し後悔してしまった。
たった二人の旅とはいえ、彼らを襲うものなどいるはずもない。いいや、そういう点でいえばひとりは役に立たず、残りのひとりだけで威圧としては十分なのであった。一回の野宿の後、とある小さな寂しい村に到着した。
「この村で仕事はありませんか?」
とヘクトルは村長に尋ねた。めったに客もおらず、門すらないので門番もいない。わざわざ村長が出迎えて歓迎してくれたのである。
「たとえばゴブリンが水場を襲うとか、イノシシが畑を荒らすとか、野良盗賊が村を襲うとか、ありませんか?」
レナスが付け加えるように過激な単語を並べたので、言われた方の初老の男性は驚いたようだった。
「せっかくのお申し出ですが、この村にも自警団はおりますので。差し当たっては困っていることはありません。が、用心棒として滞在して頂いて、その間稽古をつけてやってくれればありがたいことです。ヘクトル様、そのお名前はこちらにも響いておりますよ」
ヘクトルはそう言われて少年のようにはにかんだ。
自警団というのは村の若者数十名の寄せ集めで、それぞれ持つ武器も違い、槍が中心だが、剣や斧や弓など、様々である。その上、常に彼らが決まって集まれるわけでもなく、要するに農家や猟師をやりながらの兼業兵士というわけだ。集団としての統率が不可能な以上、個々で力を鍛えるしかない。山賊や、迷い込んできた異種族の不意の襲撃があっても、今までそれでなんとかできたのだった。もちろん被害が出ることもあったが……とにかく村は滅んではいない。
コロシアムで勇名を馳せたヘクトル・プラズムに指導されると聞き、若者たちは勇んで駆けつけた。彼らはヘクトルの巨体を見上げ頼もしさを感じ、指導を受けるとみるみるうちに強くなっていった。すべてを教えるというわけにもいかず、特に弓は彼の得意とする部門ではなかった。そちらはレナスも教えられなかった。生前はそれなりにできたはずだし、現にやり方もわかるのだが、今の姿だと、胸が邪魔でどうもうまくいかないのだ……。とはいえ猟師たちが元々上手だったために教える必要もなかった。
その猟師の中にカイというものがいて、無造作に伸ばした髪は目線が隠れるほどで、狩りの時にはわざわざバンダナを巻き付けているので、しょっちゅう仲間から髪を切れよとからかわれつつもいつもそれを無視しているのだった。彼は村の跳ねっ返りでヘクトルという高名な存在に反発心を持っていた。
「へっ、それで、このなんの特徴もない村にあんた方はいくら要求する気なんだよ」
と、寝転がりながらカイは野卑な顔で言った。他の自警団員は剣を振りながら、またこいつが何を言うつもりなのか、とヒヤヒヤしながら見守った。
「今は金は求めてない。置いてもらっているだけでいい。だがもし、敵が来ることがあれば、それと戦って、戦利品があれば分け合うことで報酬とさせてもらおうと思う」
と自分の持つ剣を両足の正面につきたて、直立し目線は固定したままヘクトルは答えた。
「じゃあ早く村が襲われたらいいって思ってるわけだ。それに、そこの女はなんなんだい? ヘクトルさん、あんたの恋人かい?」
とわざわざヘクトルに顔を近づけ、カイは小指を立ててみせた。そうだったら良いのにとヘクトルは思ったが顔には出さず、初めて首を動かしカイを正面から見て、
「いいや、あの人はお前のようなものが無礼をしていい方ではない。というよりお前よりも私よりも強いから、あまりちょっかいをかけない方がいいぞ」と答えた。
カイとしては女連れでこんなところまで、どこかの姫様の逃避行じゃあるまいし、と思っていて、なんとまるで童話か物語のような話じゃないかと皮肉に考えていた。それなのに、その答えは彼にとって不思議だった。
「いったいあんたたちはどういうわけでこんな村まで落ちてきたんだい? 駆け落ちでもないなら、なにか悪事でもしでかしたか?」
「私は村長から自警団の指導を任されている」ヘクトルはすぐに質問には答えずそう言葉を返した。「だから、貴様の無礼に対して制裁を与えることもできる。それを遠慮しているのがわからないか?」
その声色はあくまで冷静であって、カイの挑発をまったく相手にしていないかのようだった。カイはカッとなって、得意の弓ではなく木の棒を2本持ち出してきた。片方をヘクトルに投げ渡しながら、
「てめえ、これで勝負だ。俺だって街に行って一旗上げてやろうと思ってたんだ。その腕試しをさせてもらおうじゃないか!」
「余計な怪我をするつもりか? やめろ! お前なんか私に勝てるわけがない。ましてお前の得意なのは弓だろうに」
「いいから来いよ、かかってこい!」
「……後悔するなよ」
ヘクトルはもともと持っていた剣を捨てて、木の棒をゆったりと構えた。カイもなかなかの体格で、普段の猟師生活で鍛えているのは見て取れた。おそらくは村で最も強く、自信があると思われる。負けたことがないのだろう。だが、ヘクトルにはかなうべくもなかった。ただの一合で、勝負がついた。カイはうまく武器を跳ね飛ばされ、その勢いで横倒しにされた。プライドを傷つけられ、カイは悔しげな表情をした。
「大丈夫か?」
と言いながらヘクトルは手を伸ばして立ち上がらせようとする、その手をカイは振り払い、走り去った。
「負けは認めないからな!」と子供のような言葉を残して。
呆れた顔をして見送るヘクトルに、訓練を見学していた歳を重ねた村人が声をかけた。
「彼のことは気にしないでください。あれはああいう人間なので、誰にでも噛み付くんですよ。村を出たい出たい、っていつも言ってるんですから」
そうなのか?とヘクトルはその村人を見て、再度カイの後ろ姿に視線を戻すが、すでに森の奥に消えて見えなくなった。
ヘクトルがそういうやり取りをしている間に、レナスが訓練を見てやっていたが、彼女はあまり教えるのには興味がなく、ただ相手をしてやって適度に体で教えてやるのが得意だった。見た目に反してものすごく強いというのはすでに誰もが知っていたし、こっぴどく痛めつけられても怪我ひとつしないのはみんな不思議に思ってはいた。
夕暮れ時、レナスは石をひとつ拾って、手でもてあそびながら、村から貸してもらっている住居へ帰ろうと、ヘクトルと一緒に歩いていた。レナスが先を歩き、体の大きなヘクトルが歩調を合わせて後ろをついていった。
なぜこの家が空いたのか?と村長に尋ねると言葉を濁していたが、言いたくないような理由を考えると、あまり良い想像は浮かばない。まだそんなに傷んでいなかったから、少なくとも最近まで誰かがちゃんと住んでいたのだろう。単に村を出ていったのかもしれない。
「俺は家族なんていやしないけど、お前の家族は、無事なのかな」
掌の石をぽんと道端へ置くように投げてレナスは言った。
「うちは大丈夫ですよ。ご存知の通り、貴族ですから、そんな簡単にどうこうされたりしませんし、経緯の説明と、注意もちゃんとしましたから。それでも親父は何も言わなかったけど、兄貴にめっぽう怒られましたけどね」
「お前にも悪いことをしたよ……全部、私のせいなのかもしれないな」
少しばかりの沈黙があった。
「月が綺麗ですね」とヘクトルが言った。
レナスも空を見上げた。下弦の月と、満天の星空があった。
「月も、星も綺麗だよ。あれはみんな空の上、ずっと高いところにあるんだ。本当はものすごく世界は広くて……」とレナスは答えて、それから言葉が続かなくなった。不思議な感慨が彼女の胸に浮かんでいた。
帰ってから配給されていた食事を取ったが、これが街の食事に比べると実においしくないのではあるが、もちろん慣れるしかない。だいたい、レナスもヘクトルも料理が下手だったから余計に文句は言えない。




