追い立てられて
ふとレナスが思い出したところによると、バートンは自分のことを名前で呼んでいたような気がしていた。いつ自己紹介なんてしただろうか? 彼はあのコロシアムでの最初の一戦を観ていたのだろうか? レナスは少し不吉な予感を覚えながらも、翌日の夕暮れになってから、またニスバの家でヘクトルたちと合流する。
「いや、なぜうちに集まるんですか……」
「悪いとは思わないでもないが、ここが一番ひと目につかないし……それにこの、ヘクトルの家なんて、貴族の大豪邸だったぞ。あんなところに、お前、来れるか?」
レナスが親指でヘクトルを指すと、ニスバはとんでもないというように手を振った。
「そこは遠慮させていただきたいですがね……でも、もう個人的には私、普通の仕事を始めたいと思ってまして……」
「今回が最後だから、場所だけちょっと貸してくれよ、な?」
頼む、というようにレナスは頭を下げた。
「神様にお願いされちゃ断れませんが……本当にこれっきりですからね。それにしてもふたりとも目立つ存在で困ったもんですね」
実際、レナスはともかくヘクトルはもはや変装でもしなければ街を歩けないだろう。今は深々と帽子をかぶってなんとかやり過ごしているが。彼自身は今の立場に喜びと戸惑いを覚えているようで、ファンに見つかってしまうと長々とその場でサインに応じてはいるが、時々逃げ出したくなるのだ、とここまでの道々でレナスに愚痴っていた。
「まあそれも今のうちだけだろう。もう引退したのだから、忘れられるのなんてすぐさ」
と彼女は喋った。ヘクトルは先の戦い直後において引退を宣言していた。もともと長くやれる業界ではない。レナスがいるからとりあえずはよかったものの、生傷は絶えない、いつ大怪我をするかもわからないし、それに勝ち続けていると運営から対戦を組んでもらえなくなる。賭けにならないからだ。勝つのを楽しんでもらえているならまだいいが、そのうち負けるのを楽しみに観戦に来るようになる……そんなのはさすがに御免だった。
そして今回集まったのは、レナスが得た情報、マイケル・プルトという男についてと、自分たちのこれからについて話し合うためである。
「しかしですね、私が勝手に思うのですが、なぜそいつに関わらないといけないんです? もう引退するんですからほっとけばいいじゃないですか?」
そのニスバの言葉にレナスは一応は頷く。確かに当たり前の正論なのだが、彼女は正論によって動くつもりはなかった。
「俺はあの神の力すら通じさせないコロシアムの舞台の秘密がどうしても気になるんだ。プルトという者がもしもそのことを知っているならば、口を割らせたい。ヘクトルは、その男についてなにか知ってることはないか?」
「一度、大会のことで顔を合わせたことはありますけどね。いかにも知的な、細面の男で、それぐらいしか印象はありませんよ。あのバートンと組むような奴だというなら、私とはまったく無縁でしょう」
「うーん、そのぐらいか。なら、しばらくは置いておこう。警察にも手を回せる立場なら、そんな簡単に尻尾を出すわけがないものな。一応、頭の片隅にでもおいといてくれるのをふたりにもお願いしておくよ」
と、ここで一旦この話は終わり、次の話題に移る。
「次にヘクトルについてなんだが、これはただのお願いだ。ここまで活躍できたことを、レナスという神のおかげだと言ってほしいんだ。もちろんお前が自分の力で勝ったというのは十分承知している。俺はちょっと手助けをしただけ。それでも、ちょっとだけでもいいから、俺に助けられて勝てたと言ってくれないだろうか」
「レナス様、どうかそんなにしたてになって仰らないでください。私は全部最初からあなたのおかげだと思っていますよ。ええ、いつもよく来る新聞記者は、まだ私のところにやってくるでしょうから、あれにきっと言っておきますよ。私の勝利はすべてレナスという神が力を貸してくれたおかげだと。そしてそれは昔から伝えられているようなひたすらに優しい印象と違って、荒々しい神であって、背中を押すのではなく、私の手を取り引っ張ってくれたのだと伝えます。そういう側面もある神だったのだと、それでよろしいでしょうか?」
「ああ、十分だよ、一気に変えるなんて無理だろうから、まずはそれだけでいいよ。新しい神話を作っていけば、人間なんていい加減なもんだからそのうち曖昧になってわかんなくなっちゃうのさ」
「そうかもしれませんね。でもよかった、この調子なら私の生きている間はあなたは男になってしまったりしないようですね」
「どういうことだ?」
努めて感情を込めずに言ったヘクトルの言葉に対し、レナスは少しムッとしてその美しい目を釣り上げた。が、横で聞いていたニスバは目を見開き、大変驚きながらも、しかし納得もできるというような様子だった。
「まあまあ、今日はメニーも腕を振るいますから、夕食を食べていってください。酒もありますから、泊まっていってくださいよ」
今はヘクトルがたっぷり金は持っている。この街で手に入る最上級の食材を使って、彼ら4人のささやかな祝宴が開かれたのだった。
その深夜、なぜかうまく酒に酔えないでいたレナスは、彼女の直感にひらめくものがあり、ニスバの家の窓から這うようにして出た。単純に建物が狭くてどうしてもヘクトルのでかい体を踏んづけそうになるからというのもあるが、もうひとつ、そっと静かに窓を開けて出る必要があった。外に出て気配を探ると、家の影にうずくまる一人の男がいた。後ろにレナスが立っているにも関わらず、気付きもせずに火をつけようとしている。
「おい」
と声をかけると、これがまるで悪魔でも見たかのように驚いて、逃げ出そうとした。レナスはそれを簡単に捕まえると、その騒ぎでヘクトルたちも飛び起きてきた。メニーも顔を出したが、レナスが、家の中に戻って出ないようにと言った。
「こいつが今放火しようとしていたんだが、見覚えはあるか?」
とレナスは尋ねた。
「いいや、ありませんね」
とふたりともが答えた。
「しかしなんですか、この格好は。まるで昔からよく聞く、邪教徒のようですね」
とニスバが言った。
長いローブを深く被り、顔もよく見えない。明かりを近づけると嫌がるが声も出すことはない。その目つきは異常で何かに取り憑かれているかのようであった。レナスは軽い拷問を加えたが、けして何もしゃべることはなかった。ただ、誰に命令されたのかと聞いた時に一言だけ、「我らの神の意志である」と震えた声で答えて、それ以外はまったく喋らなくなった。
「これは狂信者というやつかもしれませんね」ニスバが再度口を出す。「はるか昔からずっと言い伝えられているという彼らの邪教の教えを、ずっと守っているんですよ。現在の教えの上に彼らの信じる神がいて、それから見ればレナス様ですらひとつ下の神になってしまうんだとか、どうとか」
「ふん、ローカルでマイナーな文化で下にされたところでまったく腹も立たないな。だが、かといって見過ごせない」
「でも彼らはひどく広範囲に、そして深く潜っていて、そしてこいつのように絶対に仲間のことを喋りません。しかし、レナス様はあまりお怒りでないようですが……」と言ったところでニスバは急にカッカと怒り出し、「良くも俺の家を燃やそうとしやがったな! この野郎!」といきなり男を殴りつけた。
慌ててレナスはそれを止めた。
「怒りはわかるが、こいつはそんなに体が強そうじゃない、本気で殴ったら死んでしまうよ(俺も拷問したけど)。どうやってもしゃべらないならしょうがない、警察に任せるとしよう。それで様子を見るんだな」
とふたりで結論を付けて狂信者らしき男をさっさと縛り上げてしまったために、せっかく起き出してきたヘクトルは何もすることが見つからず、酔いの残った顔で真面目そうな顔をするだけだった。
そのまますぐに警察に連れて行って引き渡したが、はたしてどうなるだろうか?
結論を言うと、その男は簡単に無罪放免、釈放となってしまった。そのことは後日ヘクトルが新聞記者からなんとか聞き及んだものの、かなり上からの手によって指示されたものだということしかわからなかった。となると、恐れなければならないのは続けてまた放火を狙われたり、家族や近親者を狙われることであろうと思われた。ニスバに金を分け与え、気の毒ではあるが彼ら夫婦は他の街へと旅立った。レナスとヘクトルも、この街を出る必要が出てきてしまったのである。




